栗山監督はなぜ若手に慕われる指導者になれた? 二人の側近が驚嘆した「信じる力」に迫る

  • ブックマーク

“第二先発”の難しさ

 厚澤も、日本ハムで栗山と出会い、監督とコーチとして信頼を深めた。

 WBCには厳格な球数制限があり、1次ラウンドの先発投手は65球しか投げられない。そのため「第二先発」という言葉も生まれた。先発とは言うが、実際にはロングリリーフだ。公式戦とは違う調整と気持ちの作り方が必要になる。

「だから僕が呼ばれたのだと思います」、厚澤は真剣なまなざしで言った。

「今回の侍ジャパンは若い投手が多い。普段は先発している投手がリリーフに入ることになる。普通に出したら抑えるのは難しいでしょう。苦も無く順応してリリーフで抑えられるのは伊藤大海くらいかなあと思いました」

 それほど、試合の途中から出て抑えるのは傍から見るより大変だという。

「第二先発の難しさのひとつは、ブルペンでしか投球練習ができないことです」

 厚澤の言葉の意味が、最初は理解できなかった。

「先発投手って投げる前に遠投をしたがるんです。でも、ブルペンだと18メートルしかない。いい助言をくれたのは吉井(理人)さん(投手コーチ)でした。イニング間の外野手とのキャッチボールを第二先発投手に任せたらいいと言ってもらって」

 戸郷翔征(巨人)、高橋宏斗(中日)、宮城大弥(オリックス)らに外野手との遠投相手を任せた。試合途中で遠投ができる上、スタジアムの雰囲気を登板前に味わうこともできた。些細なようだが、重要な課題がコーチ間の会話で解消した。こんなところにも侍ジャパンの結束とチーム力があった。

栗山監督の信頼を勝ち取った方法とは

 厚澤の名前は今まで知らなかったという野球ファンもいるだろう。厚澤は日本ハムの選手時代、イースタンリーグ(2軍)で歴代最多の通算49勝、ノーヒットノーランも記録している。だが、1軍では1勝もできなかった。現役を引退し、球団に呼ばれた時、

「打たれるのは得意だったので、打撃投手の仕事はもらえるなと思っていた。そしたら、コーチをやらないかと」

 1年間はコーチ補佐、2年目から2軍コーチにという誘いだった。

「後輩から『厚澤さんにコーチは無理だよ』と言われた。悔しかった。絶対に見返してやる! 今までにないコーチになろう、と思って、必死に勉強しました」

 2軍で3年、1軍で4年コーチを務め、チーム付きのスコアラーに転じた。その2年目に栗山監督が就任。厚澤はベンチで監督の隣に座る役目だった。

「新監督に僕のセールスもしなきゃいけないので、試合中ずっと、『この投手はこの打者に打たれますよ』『このボールがあるので、ここは抑えますよ』『相手は代打できますけど、ここは大丈夫です』などと、監督にずっと“前解説”をしたんです。全部は無理ですけど、10回中6回か7回当たったら信用されますよね」

 そうやって厚澤は独自の持ち味を生かして栗山監督の信頼を得た。そして、大谷が投手として一本立ちする年に投手コーチに戻った。

「翔平に関しては、二刀流のうち、投手としての投球プログラムの管理などをしていました。ケガをさせないことはもちろん、まだ若く体も成長していたので、そういったことを考えて、登板や球数なども管理していました」

 厚澤はダルビッシュ有とも日本ハムで主にコーチとして7年間一緒だった。

 WBCに厚澤が呼ばれた理由はこの時代の成果と信頼にもあった。

次ページ:ブルペンの魔術師

前へ 3 4 5 6 7 次へ

[5/7ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。