マリオ映画、なぜ批評家からは酷評? 「ポリコレの欠如」説は的外れ
批評家は酷評だが…
ここまで聞くと本作は非の打ちどころがないように思えるが、実は、対照的に批評家がつけた点数は高くないのである。
同サイトの批評家による評価をみると、本作に好意的だったのは59%にとどまる。内容も「観客のノスタルジーを喚起するだけの作品」などと辛辣だ。
これだけ批評家と観客の見方が分かれたのはなぜか。その一つに“ポリコレの押し付け”が指摘されている。
近年、映画製作では多様性への配慮が重視される。たとえば日本では6月に公開予定の、ディズニーのアニメーションを実写化した「リトル・マーメイド」では、元々白人だった主人公に黒人女性が起用された。
本作にはそうした“過剰な配慮”がないために、批評家は低評価をつけ、説教臭さを感じなかった観客は好感を寄せたというのだ。
「アメリカでポリコレは”常識”」
しかし、
「そういった分析は的外れだと思います」
と語るのは在米の映画評論家、猿渡由紀氏である。
「原作ではマリオからの助けを待つだけのピーチ姫は、本作ではマリオとともに冒険する能動的なリーダーになっています。アメリカではポリティカルコレクトネスは押し付けられるものではなく、ある程度“常識”と化しています」
そもそもゲームでのマリオもイタリア系移民のブルックリンに住む配管工という設定となっており、偶然にも、そうした多様性をもともと備えた設定だったせいで大幅な改変が必要なかったともいえるだろう。
前出・数土氏が指摘する。
「観客と批評家が重視するポイントにはズレがあるもの。ゲームの設定を尊重しつつ、単にエンタメの方向に振り切った結果、一般の観客には大受けしたということでしょう」