大切なのは「いろんな仲間がいること」 コロナ禍で露呈した「専門家」の危うさ(古市憲寿)
「大切なのは仲間の数じゃない、いろんな仲間がいることだ」
まるでルフィが言いそうなせりふである。ルフィといっても広域強盗団の指示役ではない。いくら実在する名前だからといって(たとえばロシアの女性名)、「ONE PIECE」もとんだ風評被害を受けてかわいそうだった。ただし名前の影響力とは恐ろしいもので、広域強盗団のルフィも「大切なのは仲間の数じゃない」とか言っている気がしてくるから不思議なものだ。
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発言の本当の出典は、文化人類学者の小川さやかさんが著した『チョンキンマンションのボスは知っている』。カラマという、香港で暮らすタンザニア人の中古車ディーラーの発言である。ルフィのような冒険王でも、そして強盗団のような悪者でもないが、清廉潔白な人物でもない。
天然石販売のため香港を訪れたが、ブローカー業を始めた。不法就労がばれて強制送還されるものの、密入国で香港へ戻る。逮捕されるが、難民認定を受け、香港で暮らす。
なぜカラマは、さまざまなタイプの仲間を持つことが重要だと考えるのか。それは人生がどうなるかわからないからだ。仕事が順調な時は大企業の経営者と付き合っていればいい。だが逮捕された時は囚人の仲間が大事になる。日本に行くことになったら役に立つのは日本の友人、タイに行けばタイの友人が役立つ。
現代日本を生きるわれわれの多くは、カラマほど波瀾万丈な人生を送りはしない。囚人の仲間が必要な人はごく一部だろう。だが友人のジャンルが広い方が人生は豊かになりそうだ。
仲間だけではなく知識や経験も幅広い方がいい。話はやや飛躍するようだが、この3年間のコロナ時代に、われわれは偏った知識と経験を有する「専門家」の危険性を学んだ。
今から100年近くも前、哲学者のオルテガは『大衆の反逆』の中で、専門主義に警鐘を鳴らしていた。近代社会の「専門家」や「科学者」は、本当は一部のことにしか詳しくない。それにもかかわらず、自信満々の彼らは自分の専門領域外でも支配的立場にいたいという願望を持つ。コロナ時代に活躍した「専門家」でも、そんな人が思い当たる。
もちろんたった一人で世界を見渡すことはできない。だからこその仲間や知識や経験だ。
最近、社会学者の加藤秀俊さんから聞いた話だが、小説家の小松左京さんは京都大学に入り浸り、各研究室を渡り歩きながら『日本沈没』などのSF作品を執筆していたという。小松作品は京大の雑多さの影響を受けているようなのだ。
考えてみれば週刊誌は、雑多の極致と言っていい。最近の「週刊新潮」を読んでも、コロナに関する真面目な検証記事から、矢部太郎さんのほっこりする漫画、ある作家の新潮社とのヒリヒリする絶縁宣言まで、バラエティーに富んでいる。ちなみに、いつの間にかこの連載も300回目を迎えた。少しは雑多さに貢献できているだろうか?