天海祐希は宝塚退団後、石原軍団入りを希望していた…筆者がホテルで目撃した面倒見の良さとは
天海祐希(55)がフジテレビ系(制作・関西テレビ)「合理的にあり得ない~探偵・上水流涼子の解明~」(月曜午後10時)で、凛々しく頭脳明晰で行動力のある探偵に扮している。ハンサムウーマンだ。天海以上にハンサムウーマン役が似合う女優はいないだろう。宝塚退団後、最初に門を叩いたのが石原プロモーションだったのも納得である。
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宝塚を退団後は石原軍団を希望
所属俳優たちが猛者ぞろいで鉄の結束を誇ったことから、「石原軍団」とも呼ばれていた石原プロ(2021年解散)。天海が同社入りを希望したのは宝塚退団から間もない1996年だった。創業社長の石原裕次郎さんは1987年に他界しており、渡哲也さん(故人)が2代目社長を務めていた時期である。
同社常務取締役だった仲川幸夫氏が振り返る。
「天海さんのお父さんが裕次郎さんの大ファンであったことも所属を希望されたのも理由の1つで、会社にも何度か遊びに来てくれました。でも、ウチは1972年に浅丘ルリ子さんが退社した後、男性俳優だけでやっていくと決めていたため、申し訳なかったのですが、お断りしたんです」
同社制作でテレビ朝日が放送した連続ドラマ「西部警察シリーズ(3部作)」(1979~1984年)は既に終わっていた。だが、そのスペシャル版が2004年に放送されている。天海の石原プロ入社が実現していたら、オートバイで疾走するハードボイルドな女性刑事が誕生していたのではないか。天海による石原プロ名物の炊き出しも見られたはずだ。
「どこに所属されようが、成功されたでしょうね」(仲川氏)
確かにそうだろう。宝塚入りしたころから才能は別格。高校2年終了後の1985年に受けた宝塚音楽学校の受験成績はトップだった。
受験時の最終面接では天海らしいエピソードを残している。面接官から、「あなた今年落ちたらどうするの?」と尋ねられると、「もう2度と来ません」と剛気に答えた。落ちてもまた受ける受験生が多いから、面接官は目を丸くしたはずだ。
ただし、天海は突っ張った気性ではなく、心優しい人である。それを目のあたりにしたこともある。約3年前まで、元民放役員(故人)を取材するために都内のホテルのカフェに行くと、先に会っているのが天海ということがよくあった。
元役員が高齢で1人暮らしだったため、天海は心配し、ちょくちょく会いに来ていた。天海は過去に元役員に世話になったものの、既に仕事上の関係はなくなっていた。元役員は天海の気遣いを喜んでいた。
マスコミに媚びを売らず
宝塚時代の話に戻りたい。天海は2年間の音楽学校生活を終えると、月組に配属された。初舞台は1987年。それから6年5カ月後の1993年9月にはトップスターになった。トップスターとは各組の男役の頂点のことである。
トップスターになるには通常、10年以上かかる。ぶっちぎりの最短記録だった。「10年に一度の逸材」「天性の男役」と言われた。その約2年後の1995年には退団。トップスターになったのが早かったので、まだ27歳だった。
同12月26日には東京・有楽町の東京宝塚劇場でサヨナラ公演「ME AND MY GIRL」に臨んだ。取材に行ったところ、そこでも天海らしさを見せた。
退団者はサヨナラ公演の終了後にパレードを行う。それに先立ち、マスコミのカメラマンたちに向かって、手を振るポーズをとるのが恒例だった。ところが、天海はやらず、そのままファンの待つパレードに向かった。ファンとの別れの日にマスコミに対して媚びを売るような真似などしたくなかったのだろう。
パレードには天海の退団を惜しむ約6000人のファンが集まった、当時の最高記録だった。涙するファンもいた。だが、天海自身は最後まで満面の笑み。「笑った顔をおぼえていてもらいたい」とコメントした。ハンサムだった。
ドラマの役柄でもハンサムのイメージが確立されたのはフジ「離婚弁護士」(2004年)。天海が扮した主人公の弁護士は、男女間の揉め事を中心とする民事紛争に毅然と切り込んだ。決して流されなかった。無闇に頭を下げない女性だった。
この作品は好評だったため、翌2005年には続編が放送された。こちらのタイトルはストレートに「離婚弁護士II~ハンサムウーマン~」。この作品が以降の天海の役柄に影響を与えた。
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