【袴田事件再審】巖さんが46年前、最高裁に出した「上告趣意書」から読み取れること

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母のともさんが買った草色のパンツ

 収監中の巌さんは、逮捕された翌年(1967年)の8月に、のちに犯行時の着衣とされる血のついた「5点の衣類」が味噌タンクから見つかったということを知り、「いよいよ真犯人が動き出した」などと喜んでいた。当時、獄中から母ともさんに送った手紙にはこう書かれる。

《八月末にこがね味噌の一号タンクから血染めの衣類が出て方向が変わっておりましたが、問題の一号タンクは、事件後、昨年の七月四日に、刑事たちが目の色を変えて捜索して何もなかったところです。それが一年二か月過ぎた今日あったということは、疑問に思います。検事の証人として出廷した一人の刑事は、こがね味噌の一号タンクには、味噌が三分の一くらいあったので、詳しく調べなかったと答えましたが、現実は隠すような場所ではないのです。味噌も少量の四〇キロあったことが明白になっております。四〇キロの少量では着衣は隠せないと思います。(中略)なお、私の草色パンツはあったのですから、血染めのパンツは他人の持ち物だということは明白です。とにかく矛盾が多いので、今後の進み方が注目されます。息子も元気なようだが、厳しく育ててください。》

「草色パンツ」とは緑のブリーフのことで、事件後に巖さんの寮から浜北市(現・浜松市)の実家に送り返された荷物の中に入っていた。これは、母のともさんが衣料店で「最近の若者はそういう色のパンツを穿くらしい」と勧められ、寮暮らしの息子のために買ってやったものだ。その時購入した緑色のブリーフは1枚で、それが巖さんの荷物から発見されているのであれば、当然「5点の衣類」のパンツは、たまたま色が似ているだけの「他人の持ち物」だと考えるだろう。

 さらに、控訴審の実験で「5点の衣類」のズボンを穿く実験をしたところ、サイズが小さすぎて全く穿けなかったことが実証され、巖さんは無罪の確信を深めた。

 しかし、裁判官は検察の「巖さんが太ったため、ズボンを穿けなくなった」などの主張を鵜呑みにした。有罪となった控訴審判決には、ひで子さんら家族とともに強い衝撃を受けたが気を取り直してすぐに上告した。

 そして翌年(1977年)、巖さんは最高裁第二小法廷の大塚喜一郎裁判長宛てに「上告趣意書」を送った。

渾身の上告趣意書

 獄中からの訴え故、巖さんがひとりで書いたため読みにくいところがある。2020年に東北学院大学の田中輝和名誉教授が読みやすく編集したものがあり、巖さんの渾身の思いや知性の高さがよく表れている。括弧は田中氏と筆者の補足。

《高裁審理中居眠りばかりして(横川敏雄)裁判長は自分の知恵と正義の意思を最高度に働かせず(中略)唯滅茶苦茶に被告人を有罪に陥れた不正義の裁判であった。まさに暗黒裁判と言うべきものであった。

 私共寮で生活していた者は、毎日食事の際は、右被害者宅の食堂で食べ物を分合うようにして食べる生活を続けていました。もちろん本件被害者の方(橋本藤雄専務一家4人)も同席して食事を済まされていました。このように家族同様に暮らしていたものが、何としても、狂ったと仮定しても、私が専務宅に盗みに入る訳がないのであります。(中略)当家でもじんきち袋などは当然厳重に守られていることは、我々従業員は百も承知している。専務宅に盗めるような物はない。(中略)被害者全員が全員火傷という事実を検討すれば、本件は怨恨以外の犯罪を考える余地はまったくない。》

「居眠り」について元裁判官の熊本典道氏は、生前、山崎俊樹氏(「袴田巖さんを救援する清水・静岡の会」事務局長)に「横川さんは糖尿病で、裁判で居眠りばかりしてるんだよ」と話していたという。

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