「白血病」を克服してマウンドに帰ってきた“不屈の左腕”岩下修一

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「病気は治ると確信していた」

 そして、2002年3月10日の教育リーグ、近鉄戦の6回、退院後初の実戦登板が実現する。「ピッチャー、岩下」の場内放送の直後、約300人のファンから惜しみない拍手が贈られるなか、内匠政博、星野修の左打者2人をいずれも内野ゴロに打ち取った。試合後、岩下は「拍手は聞こえた。全身燃えるというか、熱いものがこみ上げた。今日からが始まり。1軍で投げることが恩返しになる」と決意を新たにした。

 教育リーグで4試合登板し、3月21日のオープン戦、中日戦の7回2死から復帰後1軍初登板。福留孝介を内角スライダーで二飛に打ち取った岩下は「野球選手は見ている人に夢、感動を与える職業なんで、それをまっとうしたい」とさらなる健闘を誓った。

 同23日の中日戦でも、1回を3者凡退に抑え、「もう完全に普通の生活に戻っているし、野球をするのも普通になってきた」と手応えを掴んだ。

 また、岩下は自らの復活劇を「奇跡」と報じられるのを好まなかった。「奇跡というのは、誰もが無理だと思ったことが起きたときに使う言葉。自分自身、病気は治ると確信していたし、野球もできると思っていた」という理由からだった。

 3月30日の開幕戦、近鉄戦の5回1死、前年4月25日のロッテ戦以来の1軍公式戦登板をはたした岩下は、同年はワンポイントや中継ぎで18試合に登板。7月27日の近鉄戦では、3対3の8回1死満塁で礒部公一を二ゴロ併殺に打ち取り、延長11回の勝利につなげている。

1220日ぶりの白星

 2003年は復帰後、最良のシーズンになった。9月7日の近鉄戦、1対3の9回2死二塁で登板した岩下は、大村直之を三振に仕留め、きちんと仕事をはたす。

 その裏、オリックスは同期入団の葛城育郎のタイムリーで1点差に追い上げると、後藤光尊が右中間に逆転サヨナラ三塁打を放ち、1220日ぶりの白星をプレゼントしてくれた。

「僕、勝ち投手なんですね? うれしいです。周りの皆さんのお蔭です。今日はたまたま嫁と子供が見に来ていたんで」と喜びを爆発させた岩下に、19日後、再び勝利の女神がほほ笑む。

 9月26日、優勝マジック「1」のダイエーを相手に、3対3の延長12回2死満塁で柴原洋を二ゴロに打ち取ると、その裏、谷佳知がサヨナラ弾を放ち、ダイエーの優勝に待ったをかける価値ある2勝目を手にした。

 2005年オフ、オリックスを戦力外になると、トライアウトを経て日本ハムへ。翌06年は3試合に登板し、8月3日のオリックス戦では初対戦の古巣を打者3人で抑え、恩返しをはたす。同5日の西武戦でも2回を無失点に抑え、最後は江藤智を三振。これが現役最後のマウンドになった。

 チームが日本一になったシーズン後、「3試合だが、移籍後に1軍で(防御率0.00)抑えることができた」とけじめをつけて現役引退。打撃投手として日本ハムに残った。

 難病から復活後、51試合に登板したリリーフ左腕は、通算98試合で3勝0敗。負けなしで7年間の現役生活を終えている。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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