【どうする家康】史実とあまりに違う瀬名の描き方 「岡崎クーデーター」も難点が

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「岡崎クーデター」――。NHK大河ドラマ『どうする家康』の第20話(5月28日放送)は物騒なタイトルだったが、クーデター自体は、未然に防げたものの計画されていた。あとで詳しく述べるが、家康の嫡男である松平信康(細田佳央太)が城主だった岡崎城で、徳川家がひっくり返りかねないほどの策略がめぐらされていたのは、史実なのである。

 ドラマでは武田信玄(阿部寛)の死後、家督を継いだ勝頼(眞栄田郷敦)が岡崎の信康と母親の築山殿(有村架純、ドラマでは瀬名)をねらうと明言。この母子はクーデター派からの密告で事前に計画が発覚していなければ、危うく殺されかねないところだった。

 また、ドラマの最後には、クーデターが収まってのちのこととして、気になる場面が置かれていた。築山殿が武田方の忍びである千代(古川琴音)を、自邸の築山に呼び寄せたのである。この4年後に、築山殿は夫である家康の命で殺され、信康は切腹させられる。その原因は武田方との内通を疑われたためだと考えられており、ドラマでもいよいよ築山殿が破滅に向かって進みはじめるのか、と緊張が走る場面だった。

 だが、『どうする家康』の、このクーデターと築山殿の描き方には、首をかしげざるをえない点が多かった。ひと言でいえば、築山殿の悲劇を美しく彩ろうとしすぎて、無理が生じているのである。では、どの部分に脚色が強すぎるのか。それを知るために、史実のクーデターを確認しておきたい。

裏切りがなければ成功した可能性も

 家康が元亀元年(1570)に居城を岡崎から浜松に移したとき、信康は元服して岡崎に残り、城主になった。もちろん家康は、まだ12歳だった信康の周囲を多くの信頼できる家臣で固めた。クーデターはその家臣団のうち、岡崎町奉行のひとりだった大岡弥四郎と松平新右衛門が中心になって策謀したものだったので、大岡弥四郎事件と呼ばれる。

 地元の史料である『岡崎東泉記』によれば、岡崎城の南方に武田家の幟を立て、武田の軍勢が進軍してきたように見せかけたうえで、北方の足助方面から武田軍を岡崎城に迎え入れ、三河(愛知県東部)を武田の勢力下に置こうという計画だったという。

 しかし、クーデター側の山田八蔵が裏切って、岡崎城に通報したので発覚。大岡は居宅で生け捕りにされたという(その後、1週間にわたって首を竹ののこぎりで少しずつ挽かれたのちに、妻子と一緒に磔になった)。

 この事件が起きたのは、武田氏に対して劣勢だった当時の状況が大きく作用したと考えられている。家康は織田信長と同盟を結んで武田氏と戦っていたが、現実には、武田氏の攻勢が激しく、家康の領国はその範囲がどんどん減退していた。これに対して、武田と争う路線をこのまま続けていいのか、という反発が信康の周囲の岡崎家臣団のなかで生じ、むしろ武田氏と組んだほうが領国を守れるのではないか、と考えた家臣たちが武田軍を岡崎城に引き入れようとした、というのである。

 実際、危ういところだった。黒田基樹氏は「山田の裏切りがなければ、謀反が成功していた可能性は十分にあった。もし岡崎城が武田方に帰属したとしたら、三河はそれこそ武田家の領国になってしまい、そうすると遠江南西部を維持するにすぎなかった家康の運命も、どうなっていたかわからない」(『徳川家康の最新研究』)と記している。

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