バウアー以上の大ブームだった…「ホーナー」、「郭泰源」が日本球界に残した“衝撃”
“オリエンタル・エクスプレス”
最速158キロの快速球を売りに“オリエンタル・エクスプレス”の異名をとったのが、85年に西武入りした郭泰源である。
チャイニーズ・タイペイエース時代の83年のロス五輪アジア予選で日本を2安打完封して優勝。翌年のロス五輪でも米国打線から12三振を奪い、ドジャースタジアムのファンの度肝を抜いた。五輪後、無名の高校時代からアプローチを続けていた西武が、巨人との争奪戦を制し、契約金8000万円(推定)で獲得に成功した。
そして、85年4月8日の近鉄戦で来日初登板をはたした郭は、1失点完投勝利を挙げ、「初勝利の喜びを(前年の五輪直前に他界した)亡き父に伝えたい」と感激の面持ちで語った。
また、この日は堤義明オーナーが「郭という投手が入り、ファンもその目で何キロの速球か見たいと思うだろう」と本拠地・西武球場へのスピードガン設置を発表している。郭の登場により、スピードガン時代は急加速していく。
5月までに5勝を挙げた郭は、6月5日の日本ハム戦では、人工芝球場(平和台)で初のノーヒットノーランを達成。「あんなに速い球を投げられたらしょうがない。手も足も出なかった」と日本ハム・高田繁監督を脱帽させた。
同年、9勝5敗で西武の2年ぶりリーグVに貢献した郭は、日本で13年間の長きにわたってプレーし、二桁勝利6回を含む通算117勝を挙げている。
監督ながら“お立ち台”に
ブームを起こしたという意味では、ロッテのボビー・バレンタイン監督もその一人に挙げられるだろう。
大リーグ監督経験者で初のNPB球団の監督が誕生した背景には、当時人気が低迷していたロッテの一大イメージアップ作戦があった。
1992年に本拠地を千葉に移したロッテは、初年度こそ130万5000人を動員したが、翌93年は93万人にダウン、9年連続Bクラスに沈んだ94年も108万6000人と伸び悩んだ。
そこで同年オフ、“新生ロッテ”をファンにアピールするため、ヤクルト、西武監督時代に日本一3度を達成した広岡達朗を日本球界初のGMとして招聘。さらに「日本に適任者がいない」という広岡GMの推薦で85年から92年までレンジャーズを率いたバレンタインを新監督に迎えた。
新体制の効果は絶大だった。就任直後の秋季キャンプでは、前年まで1人か2人しか取材記者がいなかった寂しい状況から一転、各紙の全担当記者はもとより、テレビ、雑誌など多数の取材陣が、浦和球場(二軍の本拠地)に殺到した。
1995年シーズンが開幕すると、バレンタイン監督は「ベースボールというのは、楽しくプレーするものだ」と、陽気な性格を前面に出してファンサービスに努め、派手なジェスチャーで抗議する姿も話題を呼んだ。チームも10年ぶりのAクラス、2位に躍進し、観客動員も127万人にアップした。
だが、シーズン中に広岡GMとの確執が表面化し、1年で解任というまさかの結末に……。それでもロッテファンは“ボビー、カムバック”とラブコールを送りつづけた。2004年、9年ぶり復帰をはたしたバレンタインは、本拠地開幕戦の勝利後、監督でありながらヒーローとしてお立ち台に呼ばれるという相変わらずの人気ぶりを見せている。
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