【渥美清の生き方】しょせん人間は孤独…自分の最期を「板橋のほうの職安脇のドブに、頭を突っ込んで死んでるよ」

  • ブックマーク

もう一人の自分を表現した俳句

「不治の病」とまで言われた肺結核を浅草の役者時代に患い、一時は死を覚悟した渥美さん。2年の療養後、芸能活動を再開した昭和30年代からは、ガラリと人が変わったという。「俳優」という仕事を醒めた目で見つめ、あれほど飲んでいた酒もほとんど飲まなくなったといわれる。

 浅草時代からの知人でもあった俳優の小沢昭一さん(1929~2012)は、そんな渥美さんを「隠れることの名人」と称した。

 これは後の話だが、寅さん映画が公開されると渥美さんは、こっそりと各地の映画館に出かけた。新宿、池袋、浅草……。自分でお金を払ってチケットを買い、たぶん最後列の席に座ったのだろう。その土地、その土地で、客の反応がどう違うかを自分の目で確かめたかったに違いない。テレビのインタビューで、こんなことまで語っていた。

「大勢人が集まるところで、お客さんの後ろに紛れ込んで見るようにしています」

「熱気みたいなものを感じられる。キザに言えば、同じ空気の中に一緒にいられるという感じがします」

 人間の機微、社会の矛盾……。あの細い目で森羅万象の深いところまで見ていたのだろう。前述したように、唯一の趣味といえるのが「俳句」だった。

 誘ったのは友人の永六輔さん(1933~2016)といわれている。「五七五」の短い詩の中に重ね合わせる心象風景。「渥美ヤンにピッタリだ」と永さんは思った。映画では「いつも明るい寅さん」を演じ続けなければならない葛藤もある。俳句は、もう一人の自分を表現するための手段という面もあった。こんな俳句を残した。

《好きだからつよくぶつけた雪合戦》

《山吹キイロひまわりキイロたくわんキイロで生きるたのしさ》

《初めての煙草覚えし隅田川》

《お遍路が一列に行く虹の中》

《赤とんぼじっとしたまま明日どうする》

 赤とんぼって、渥美さんのことなのかもしれない。自らの肉体に巣くった病魔との闘いの中で、絶望や不安に駆られることも多かったに違いない。渥美さんは「役者は役の名で呼ばれているうちが花」と言っていたが、亡くなる8年前の1988(昭和63)年、友人の脚本家・早坂暁さん(1929~2017)に声をかける。

「尾崎放哉をやりたいんだけど」

 放哉は季語を含めず自由に詠んだ大正時代の俳人。結核を病み「咳をしても一人」という句がある。渥美さんも20代に結核で片方の肺を失っていた。

 ドラマの主人公はテレビ局の都合で、放浪の俳人、種田山頭火に変わる。だが、来週から撮影というとき、渥美さんは突然キャンセルした。

「寅さんが坊主の山頭火の袈裟姿になったら笑われないだろうか」

 寅さんのイメージから抜け出すことはついにできなかった。

 さて、話を元に戻そう。その間にも、がんは肝臓から肺に転移。病気は進行していた。ロケの合間、立っているのも本当につらかったに違いない。「お遍路が……」は円熟の域に達した渥美さんが残した最高の句といわれている。金剛杖に白装束で歩くお遍路さんの姿が浮かんでくる。

 それにしても、天はなぜ、渥美清という天才にこれほどまでに過酷な試練を与えたのか。寅さんという架空の人物を実在させた背景には「壮絶な死」があり、そのつらさを一人で引き受けてきたと思うと胸が痛む。

 1996(平成8)年8月4日、渥美さん逝く。享年68だった。3日後の7日午後2時、松竹から正式に発表がある。日本中が騒然となり、テレビは臨時番組を組んだ。朝日新聞社も社会部は全員のポケベルが鳴り、本社に非常召集。渥美さんの友人らへの談話取りに追われた。

 次回はあの暑い夏を振り返る。
(続く)

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 3 次へ

[3/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。