【渥美清の生き方】しょせん人間は孤独…自分の最期を「板橋のほうの職安脇のドブに、頭を突っ込んで死んでるよ」

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「メメント・モリ」とはラテン語で「死を想え」の意。日本で唯一「大衆文化担当記者」の肩書を持つ朝日新聞編集委員・小泉信一さんによる新連載「メメント・モリな人たち」は、これまで取材で取り上げた様々な人たちの「人生の幕引き」をテーマに、死を迎える諦念、無常観を描きます。第1回で取り上げている俳優・渥美清(1928~1996)は、親しい仲間に対しても私生活を明かすことはほとんどありませんでした。断片的なエピソードをつなぎ合わせることで見えてきた国民的名優の素顔とは――

風のような人だった

 一体、どこに自宅があるのだろう? 家族構成は? お子さんはいるのか?

 同じ1928(昭和3)年生まれで、下積み時代を共にし、兄弟のように親しくしていたコメディアンの関敬六さん(1928~2006)にすら、渥美清さんはプライベートな生活を明らかにしなかった。

 渥美さんとは一体どんな人物だったのだろう。

「風のような人だった」という声がある。いつの間にか現れて、いつの間にか去っていく、というのである。

 格好はいつも身軽。大きな荷物などはほとんど持たなかったという。たしかに渥美さんには、重たいスーツケースを抱えて旅行しているようなイメージはない。仲間内で食事をしているときも、いつの間にかふいっといなくなる。しかも全員分の勘定を渥美さんが済ませているのだ。

 同じ浅草出身の芸人たちの末路を、こんな風に友人や知人に語っていた。

「アイツはね、4畳半のアパートで死んで3日目に見つかったんだよ」

「最後は場末のキャバレーでボーイをしていたんだよ」

 所詮、人間は孤独。どんな有名人でも最期は一人。そんな諦めに似た思いが心の片隅に潜んでいたに違いない。映画「男はつらいよ」シリーズを撮影した松竹大船撮影所(神奈川県鎌倉市)近くのレストランに出かけたときも、壁に飾られた河童の墨絵のようなものをしみじみ眺めながら、「悲しい絵だねえ~」とつぶやいたそうだ。

 ベタベタした人付き合いを嫌った。

「人に触られたくないし、触りたくないというのかな。あっさりしているんです」

 寅さん映画で共演した柄本明さん(74)はそう語る。

 友人たちと一緒に浅草に泊まることもあった。松竹歌劇団(SKD)の本拠「国際劇場」の跡地に建てられた「浅草ビューホテル」がなじみの宿。もちろん部屋は別々。渥美さんが好んだのは、浅草寺の風景が間近に見える隅田川側の部屋だった。

 みんなと食事に出ても、「俺、先に寝るよ」。夜も早い時間に自分の部屋に引きあげた。昨晩どこへ行ったのか、店はどんな様子だったのか、一緒に泊まった友人たちに翌朝聞くのを渥美さんは楽しみにしていた。

「渥美ヤンは、浅草の街にふっと紛れ込み、浅草の空気を胸いっぱい吸っていた。この街で心を休めていた」と関さんは話していた。

 ホテルの窓からは遊園地「浅草花やしき」も見える。不良グループのリーダーだったころを思い浮かべたかもしれない。補導されたときお巡りさんから「お前、悪いことするなよ。役者になったほうがいい。一度見たら忘れられない顔は役者に向いているんだ」と言われたこともあったという。

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