作家・錦見映理子が「全身ピンク色の教師」から学んだこと ふと思い出して小説のモデルに
ピンクの服ばかり着ていた中年の女性教諭
『リトルガールズ』で太宰治賞を受賞し、最新刊『恋愛の発酵と腐敗について』でも話題を集める小説家で歌人の錦見映理子さん。学生時代、ピンク色の服ばかりを着ていた家庭科の女性教諭のことを、あるときふと思い出した彼女は……。
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中学を卒業してから会うこともなかった「ピンク」のことを突然思い出したのは、小説を書きたいなあ、とぼんやり考えていた、48歳の秋のことだった。
毎日のように全身ピンク色の服を着ていた独身の家庭科教師のことを、私たち生徒は「ピンク」とか「ピンクばばあ」というあだ名で呼んでいた。
入学式に、彼女が桜色のひらひらしたワンピースを着ていたことを覚えている。おばあちゃんがあんな服を着るなんて変だ、と当時は思っていた。あの頃の彼女と、いつの間にか私は同じくらいの年齢になった。彼女の生年は知らないけれど、当時50代半ばだったとすると、今頃もし生きていたら90代だろう。終戦を迎えた1945年は、17歳くらいだったことになる。
先生に会おうとしたが…
もしかして「ピンク」は、同年代の男性が戦争のせいで少なかったために、結婚しないで家庭科教師になったのかもしれない。ピンク色のロマンチックなワンピースが最も似合う年頃には、そんな格好はできなかったのかもしれない。
私たち生徒にはやし立てられても、彼女は3年間毎日ピンクを着続けていた。きっとそれだけ好きで、大事な色だったのだ。私は初めて、彼女が本当はどんな人だったのか、知りたくなった。
私がそれから1年かけて書いた小説『リトルガールズ』が世に出て間もなく、「ピンク」こと鈴木先生の消息がわかった。読んでくれた同窓生のMちゃんから、メールが来たのだ。数年前、道でばったり会ったというのである。
私のことを覚えておられるかはわからないけれど、できればお会いして自著を渡したい、と返信すると、早速Mちゃんは先生が住んでいると思しきマンションの、「鈴木」と表札が出ている部屋を何度か訪ねてくれた。しかし、何度呼び鈴を押しても応答がない。もうちょっと待ってね、管理人さんに聞いてみるから、とMちゃんから再びメールが来てからしばらくの後、その部屋の住人が、2年前の秋に亡くなっていたことを知らされた。ちょうど、私がなぜか突然、先生のことを思い出した頃だ。
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