両親は離婚、ヤングケアラーで大学進学も断念…ある日わかった母親の本性に絶句した43歳男性の告白
「幸福感」も「幸福観」も人それぞれ。端から見て幸せそうでも、本人の胸のうちにはさまざまな思いが去来していることも少なくない。
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井上亨治さん(43歳・仮名=以下同)は、結婚して17年になる妻との間に3人の子がいる。妻は2歳年上だが、人を疑うことを知らない「純粋な人」だという。彼の人生は順風満帆のように見えるが、本人としては「いつもコンプレックスの塊だった」らしい。
「僕は北関東の県の県庁所在地から少し離れたところで産まれました。同じ敷地内に祖父母が住む母屋があり、伯母一家や他の親戚などがそれぞれ家を建てて住んでいた。一族の絆は強かったと思います。祖父母は農業をしていましたが、あとはみんな兼業農家。他にも仕事をもっていた。父は自身の弟とともに不動産業を細々と経営していました」
亨治さんが産まれてすぐ80年代に入り、景気は右肩上がり、そして一気にバブル時代がやってくる。
「一族はけっこう土地をもっていたんですよね。さらに父と叔父は土地を転がし始めたらしい。一方でヤミ金的なお金の貸し借りもあったみたい。僕が小学生のころ、父は田舎では珍しいバカでかい外車に乗っていました。当然、株などにも手を出していたんでしょう。父と母と3人で、北海道に旅行したことがあるんです。あの当時、父は忙しくてめったに家にいなかったけど、一度だけ旅行をした。いいホテルに泊まってタクシーを借り切ってあちこち行って。いいお鮨屋さんで、うにのおいしさに目覚めて、うにばかり注文したら父親に頭を小突かれたのを思い出します。みんな笑ってた。最初で最後の父との思い出ですね」
彼が中学に入るころ、バブル崩壊。そこから1年ほどの記憶は断片的だという。父が真っ青になってあちこちに電話をかけている場面、堅気には見えない人に母が頭を下げている場面、そして彼自身も「怖いおじさん」に下校時に囲まれた場面などが残っているそうだ。
「気づいたら中学は、東京郊外の母の実家から通っていました。大人になってから母に聞いたところによると、バブル崩壊とともに父とは離婚、父の一族も土地を追われてちりぢりになったそうです。子どものいない叔父夫婦が僕をほしがったそうですが、母は絶対渡さないと啖呵を切って実家に連れ帰ったらしい」
“ヤングケアラー”だった
とはいえ、母の実家はあまり裕福ではなかった。亨治さんから見て母方の祖父は病気がちで、祖母はいつも財布をのぞいてはため息をついていた。当時、30代半ばだった母は夜の勤めに出て稼ぐことにしたという。
「とにかくお金がないと子どもを育てることさえできない。そう思ったようです。父親の件で警察が母のところに来たこともあった。父たちはかなり稼いでいたはずなのに、母にはお金が渡っていなかったので、警察も諦めて帰ったみたいですが」
亨治さんが公立高校に進学してしばらくたったころ、父が亡くなったという連絡があったのだが、母はそのことを彼には告げなかった。通夜も葬式もなく、遺体は自治体によって荼毘に付されたそうだ。
「僕は高卒で就職しました。通っていた公立高校のクラスで就職は僕だけ。母も教師も大学進学を勧めてくれたけど、甘えてはいられないと思って」
地元の中小企業に入社した。アットホームな会社で、社長自ら彼の境遇を慮り、「もし大学に行きたくなったら言えよ。二部なら通えるだろ。資金ならいつでも貸してやる。出世払いでいいから」と言ってくれた。彼はありがたく思いながらも、まずは母に楽をさせてやりたいと懸命に働いた。
「僕が就職して2年目に、祖父母が相次いで亡くなったんです。生命保険などが多少入ってきて、母もふっと楽になった。なんだ、これなら大学進学もできたじゃないかと一瞬、虚しさを覚えましたね。中学高校時代は、母や祖母を助けるために早く家に帰って家事をしたりしていた、今でいえばヤングケアラーだったんですが、どうがんばっても人の命は消えていく。自分ががんばってきたことに意味はなかったのかもしれないと思ってしまって」
それでも、昼間、近所のスーパーで働くようになった母の眉間から深いしわが薄らいでいくのを見ると、これでよかったんだと彼は自分に言い聞かせるしかなかった。
「高卒だってやれると思ってもらいたかったら、必死に仕事をして、仕事で必要な資格をとるための勉強もしていました。社長には本当にかわいがってもらいましたね」
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