荒れ狂う“猛牛”に“カネやんキック”が炸裂…地方球場「三大乱闘事件簿」

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“秋田の陣”

 死球に怒った打者が投手を外野まで追いかけ、乱闘の輪の中で監督のキックも飛び出す大荒れの展開になったのが、1991年5月19日、八橋球場で行われたロッテ対近鉄の“秋田の陣”である。

 4対6の9回表、近鉄が2死二、三塁と一打同点のチャンスをつくった直後、3番・トレーバーに対し、カウント3-1から園川一美の5球目がすっぽ抜け、右背中を直撃したのが、引き金となる。

 逆上したトレーバーはヘルメットを投げ捨てると、182センチ、96キロの巨体を揺すってマウンドに突進。園川は慌てて右翼方面に逃げ出した。藤瀬史朗一塁コーチらが止めようとしたが、“怒れる猛牛”の怪力には叶わない。外野の芝生まで一気に駆け抜け、園川に追いついたトレーバーは、襟首を掴むと、仰向けに押し倒した。たちまち両軍ナインがもみ合い、試合は5分中断した。

 審判団の仲裁でいったん騒ぎは収まった。だが、退場処分を受け、三塁ベンチに引き揚げかけたトレーバーが、突然一塁ベンチ前のロッテ・金田正一監督に目がけて走り出し、第2ラウンドが幕を開ける。乱闘のどさくさに紛れて、「羊がライオンに襲われているのに、黙って見とられるか」と蹴られた怒りを再燃させたのだ。
 
 ところが、標的を目前にして、足がもつれて前のめりにズデーンと転倒。その顔面にすかさず“カネヤンキック”が命中する。試合はさらに7分中断した。

 近鉄はトレーバーが全治5日の打撲傷を負い、大石大二郎が口内裂傷、藤瀬コーチが両腕打撲、ロッテも佐藤健一が右手首打撲と計4人が負傷という惨事に。

 だが、温厚な人が多い土地柄か、スタンドのファンは騒動を起こすこともなく、まるでプロレスでも見るかのように乱闘劇を楽しんでいたという。

“富山の乱”

“秋田の陣”に対し、“富山の乱”と呼ばれたのが、1993年6月8日に富山アルペンスタジアムで行われた巨人対ヤクルトである。

 1回表のヤクルトの攻撃で、古田敦也が2球続けて胸元を攻められたあと、3球目に右上腕部への死球を受けたことがきっかけだった。

 両チームは5月の対戦カードで死球禍が相次ぎ、巨人・大久保博元が左手首骨折で戦線離脱するなど、遺恨試合の様相を帯びつつあった。野村克也監督も「(故意の)危険球ではないか?」と抗議し、本塁上で両軍ナインがにらみ合った。

 その場はそれで収まったが、2死一塁で広沢克己が左越え二塁打を放つと、古田は三塁コーチの制止を振り切って本塁に突っ込み、捕手の吉原孝介に体当たりした。

 吉原も負けていない。ミットからボールを離さず、アウト判定のあとも倒れた古田にのしかかるようにして、肘打ちのような強烈なタッチを2度繰り返した。

 次打者・ハウエルが古田に加勢して吉原に詰め寄ると、マウンドから宮本和知が駆けつけ、両軍ナイン入り乱れての大乱闘にエスカレート。ショート・川相昌弘が飛び蹴りしながら乱闘の輪に加わり、長嶋茂雄監督がネット裏の前で押し倒されたシーンは、今でも昨日のことのように語り継がれている。

 だが、乱闘の鮮烈な記憶とは裏腹に、試合はヤクルトが9対0で大勝したことを覚えているファンは、それほど多くないはずだ。

「こういうゲームだから、勝って良かった。巨人のお蔭だ」と溜飲を下げた野村監督に対し、巨人は球団の創立者・正力松太郎の出身地・富山であってはならない大乱闘を演じ、試合も一方的に敗れるという“黒歴史”を刻むことになった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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