アボリジニ差別と闘った女子テニス「グーラゴング」 オーストラリアテニス界の礎に(小林信也)

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人種隔離政策

 グーラゴングは1951年7月、オーストラリアのニューサウスウェールズ州で生まれた。8人兄弟の3番目。家族はシドニーの西の羊牧場で羊毛刈りの仕事をしていた。実入りは少なく、生活は貧しかった。グーラゴングが少女だった50年代、アボリジニは迫害の対象で、政府や世間から保護を受けるどころか虐待される立場に置かれていた。60年代まで、アボリジニはオーストラリアの人口統計に加えられていなかった。確かにそこで生活していながら、人として存在を認められていなかったのだ。

 アボリジニの誕生は5万年前とも12万年前ともいわれるが、18世紀にイギリスに植民地化されてからアボリジニの受難が始まった。免疫のないアボリジニは、イギリス人が持ち込んだ疫病で多くが亡くなった。海外から来た移民がアボリジニをスポーツハンティングのターゲットにしたという痛ましい歴史もあって、その人口は90%も減少したといわれる。

 それでも19世紀半ばから20世紀にかけて、一部のアボリジニは陸上、ボクシング、クリケットなどの競技で才能を発揮し、世界で活躍した。ファイティング原田から世界王座を奪ったことで知られるライオネル・ローズもアボリジニだ。

 スポーツ界での彼らの活躍は「白人化計画」「文明化策」の一環として奨励もされたが、頂点に立って英雄視される現象を歓迎しない勢力もあり、むしろ妨害されるようになった。

 貧しい家庭に育ったグーラゴングがテニスを始めたのは奇跡のようなものだ。町にあったコートのフェンス越しにテニスを見ていた彼女に声をかけてくれた人がいた。勧められてテニスを始めると、その才能がシドニーでテニスクラブを経営するビクター・エドワーズの目に留まった。彼はグーラゴングの両親を説得し、養女に迎えてテニス選手として育成した。

 こう書けば美談のようだが、当時の事情を知ると本人、両親にとってそれは危険な選択だとも理解できる。アボリジニの絶滅を意図して豪政府は、「先住民族の保護」の名目で人種隔離政策を取った。アボリジニの子どもを親から引き離し、白人家庭や寄宿舎で養育してアイデンティティーを喪失させた。テニスという目的はあったが、グーラゴングも同じ憂き目に遭う懸念が大いにあったわけだ。

 しかしグーラゴングは、その才能を着実に磨き上げた。70年にプロデビューすると、71年の全仏オープンで早くも頂点に立った。まだ19歳。さらにウインブルドンでも優勝し、新たな女王となった。グーラゴングは、パワフルな片手バックハンドと、達人と賞賛されたボレーで他の選手を圧倒した。四大大会では全豪4回を含め計7回優勝。最後の80年ウインブルドン優勝は75年に結婚し、77年に長女を出産した後。母親選手のウインブルドン制覇はプロに門が開かれた68年以降では初の快挙だった。

バーティにトロフィー

 バーティは昨年1月の全豪オープンで初優勝。その時、トロフィーを手渡したのはグーラゴングだった。そして3月、引退した。

「テニスが私にくれたすべてにとても感謝している。誇りと満足感を覚えている」

 そう語る顔は清々しかった。最近のテニス事情を伝えた同国の新聞によれば、「オーストラリアでは昨年、テニスをする子どもが3割近く増えた。先住民と女子が特に多い」という。それはバーティの活躍がもたらした影響であり、その礎となったのが、グーラゴングだ。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2023年5月25日号掲載

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