自分の好きなところに出かけて生涯終われるんだったら、末は野垂れ死んでも…証言で振り返る「渥美清」の生き方

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好んで歌った「赤い靴」

 東京・上野に生まれた渥美さん。本名は田所康雄である。兄がいたが、若くして亡くなっている。父は地方新聞の記者をしていたが、政治的な思想が強かったらしく、クビに。母が内職をして家計を支えたが、生活は相当貧しかった。

  板橋に越してきたのは1936(昭和11)年、8歳のときだった。志村第一尋常小学校 (現在の板橋区立志村第一小学校)に通った。辺りは一面の麦畑。西の空に富士山が見えた。

 極貧生活の渥美さんは、昼の弁当を持ってこられず、支給された玄米飯を食べていた。勉強は大嫌い。授業を受ける時間より廊下で立たされているほうが長かった。が、記憶力は抜群。ラジオ放送の講談や落語は聞いたそばから覚えて学校で披露し、みんなを笑わせた。

 実は、尋常小学校卒業後の渥美さんの人生はよく分かっていない。ただ、さまざまな友人たちの話を総合するに、敗戦後は焼け野原の上野界隈を舞台に、不良少年グループのリーダーとして凄みを効かせていたのだろう。やがて旅芝居の一座から浅草のストリップ劇場で幕間のコントを演じるが、マシンガンのように繰り出すギャグの面白さが評判となり、一躍浅草の人気者になった。

 だが1954(昭和29)年、結核で入院。右肺を摘出した。結核が「不治の病」といわれた時代である。病院は埼玉県の春日部市にあった。機械を回すベルトの切れ端が天井からぶら下がっていて、風が吹くと「ピターン、ピターン」と鳴ったという。

「もうおれ駄目だよ」

 見舞いに行った関敬六さんは、渥美さんの投げやりの言葉を何度も聞いた。当時まだ26歳。その胸中たるや、いかばかりだっただろう。

 結核にむしばまれ、死の恐怖と向き合っていた渥美さんを激励しようと、浅草の芸人仲間が駆けつけたことがある。みんなでお金を出し合い、デコレーションケーキを買い、病室でささやかなクリスマスパーティーを開いた。

「こんな高いケーキ、大丈夫かよ」

 渥美さんは四角い顔をくしゃくしゃにしておどけて見せたという。首に飾り付けのモールを巻くと、ベッドの上でしみじみと「赤い靴、はーいてたー」と歌ったそうだ。「渥美ヤンの大好きな歌だった。幸せを噛み締めていたんだろう」と関さんは振り返っていた。

 約2年の入院生活を経て、渥美さんは退院した。だが「片肺」という身体的ギャップを背負いつつの芸能生活。渥美さんが撮影の合間に休憩室でよくゴロンと横になっていたのは、体が疲れやすいためだった。
(続く)

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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