小倉少子化担当大臣、「複雑な家系図」を“腹違いの兄”が明かす 2度のスピード離婚の原因とは
愛人との間に子どもが
60年代に入り、学生運動が激しくなった後、王子に前述したビルを建て、飛鳥山病院を開業する。
「王子は米軍の野戦病院が近く、学生運動が激しい場所でした。が、共産主義者が嫌いな父は負傷した学生を相手にせず、警察官ばかりを治療していました」(同)
父は都内の医療法人を買収するなどし、事業を広げ、財を成していった。世田谷区成城の約180坪の敷地に建つ豪邸に一家が移るのもこの頃だ。しかし、女性関係の派手さからか、70年代に夫婦は離婚してしまう。
兄が続ける。
「都内に何軒も家を持つようになり、富裕層の仲間入りをしました。が、北海道出身の看護師だった愛人との間に子どもができてしまった。おそらく、その子は認知していないと思います。僕は幼い時分のその子と何度か会ったことがあって、“父親の顔が見たい”と言うので病院の近くまで連れて行って“あれが父親だよ”と教えてあげたりしました」
「認知してくれ」
ほどなく、父はすらっとしたファッションモデルと見紛う美貌の女性を伴うようになる。それが父の2人目の妻。10歳以上も年下だった。
別の親族が語る。
「とある葬儀で出会ったのがきっかけだったそうで、お父さんの方が一目で気に入り、ストーカーかのようにつきまとい、結婚までこぎ着けたんです。押しに押して、という形でした」
数年に及ぶこの妻との婚姻期間中にも女性問題が噴出することになる。別の女性から夫婦のもとへ「うちの子どもを認知してくれ」と連絡が入ったのだ。その女性こそ將信氏の母その人だった。
2人目の妻と結婚しながら、將信氏の父は自身が経営する病院で事務をしていた女性との間にも將信氏を含む2人の子どもをもうけた。まさに「火宅の人」である。
「離婚歴や婚外子がほかにもいることがわかり、たまりかねた奥さんは離婚することにしました」(同)
そして1984年、將信氏の母は父と籍を入れ、平野から小倉姓となる。
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