バッハ以前の音楽は、なぜクラシック音楽と呼ばないのか?――音楽評論家が考える「古楽・現代音楽にはない特権性」
クラシック音楽が好きという人は多いでしょう。愛好家ではなくても、バッハやモーツァルトなどをBGMに聞き流している人も結構いるはずです。
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ところで「クラシック」とは「古典」という意味ですが、バッハ以前の西洋音楽は「古楽」と呼ばれ、なぜかクラシック音楽とは呼ばれません。また、シェーンベルク以降の西洋音楽は、なぜか「現代音楽」と呼ばれています。
いったいクラシック音楽とは何なのか――? 岡田暁生さんと片山杜秀さんの対談本『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)から、一部を再編集してお届けします。
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クラシック音楽の特権性
岡田:のっけから「絶対ごまかせない、でも思わずごまかしたくなる」問いです。「クラシック音楽において『バッハ以前』はどこへ行っちゃったのか?」 むかしから学校の音楽教室にかかっている大作曲家たちの肖像は、なぜかヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685年~1750年)から始まると決まっています。まるでバッハ以前に作曲家はいなかったかのようです。
しかし西洋音楽にはバッハ以前にすでに千年近い歴史がある。バッハが生まれたのは1685年ですが、西洋音楽が本格的にはじまったのは9世紀、「グレゴリオ聖歌」が整えられるあたりからでしょう。なのに、一体なぜ“クラシック音楽”は、バッハ以後のものばかりなのか。そのあたりからはじめましょう。
片山:たしかに、1千年といえば、たいへんな時間の流れですよね。そこを等閑視してしまうのは、「ごまかし」と言われても仕方がない。
岡田:そもそも、「古楽/クラシック/現代音楽」という音楽史の時代区分自体に、クラシックの“特権性”が表われていますよね。なぜなら「古楽」や「現代音楽」は時間軸カテゴリーですが、「クラシック=古典」はそうではない。「価値」のカテゴリーだ。「古楽」は「クラシックよりも前の音楽」で、「現代音楽」は「クラシックよりも後の音楽」。歴史上の特定の時代区画に位置づけられている。ですが「クラシック=古典」は、時間軸を超えた「普遍不滅」と含意されている。
片山:その通りです。もちろん、クラシック音楽とは18世紀から20世紀初頭にかけての西洋音楽であると、歴史的、空間的に位置づけることもできます。しかし一方で、ショッピングモールのBGMでクラシックがかかっていても、「あっ、300年も昔の西洋の音楽がかかっている!」とは誰も思わない。それほど、現代の日本にも馴染んでいる。
もしBGMにペロタンの古楽や、武満徹の現代音楽が流れていたら、多くの人は「あれっ、今日はちょっと変わった音楽が流れているな」と思うはずです。そのような意味で、クラシックはたしかに時空を超えた特権的な地位を占めていますね。
レコード・CD売り場における差別
岡田:片山さんや僕が中学生くらいのころ、レコード店へ行くと、クラシック音楽のコーナーには「バッハ」とか「ベートーヴェン」とか「ワーグナー」が並んでいた。でもなぜかアルノルト・シェーンベルク(1874年~1951年)以後は「現代音楽」コーナーに行かないといけない。「クラシック」じゃない特殊枠になっちゃう。そしてバッハより前のクラウディオ・モンテヴェルディとかディートリヒ・ブクステフーデとかは、古楽コーナーにまとめられている。これまた特殊枠だ。さすがに最近はここまでではないでしょうが。いずれにせよ、ずいぶんと奇妙な分類をしていたわけです。
でもよく考えると、この分類法には人々の無意識バイアスがあらわれているようで面白い。つまりクラシックはバッハから始まってだいたいシェーンベルクの手前までだ、それより前もそれより後も特殊領域だ、というわけでしょう。「古楽」と「現代音楽」はマニアの方のみどうぞ――そんな秘密めいたにおいに、子どもの頃の片山さんなんかしびれたんじゃないですか?
片山:しびれるというか、あの仕切り方によって育てられた価値観があとあとまで効いているのは確かですね。「現代音楽」は売り場の端っこで隔離されているということ。特権的というよりも差別されていると感じたかもしれない。
岡田:いわゆるクラシック音楽の歴史にとって、18世紀まではいわば助走期間、19世紀が世界制覇の時代、そして20世紀が黄昏というか没落期と言っていいと思います。20世紀もまだ最初の数十年はそれなりにプレゼンスを保っていたけれども、第2次世界大戦後になると現代音楽(前衛音楽)と言われるものに変貌して、完全に超マイナーになっちゃう。
「クラシック音楽帝国」の世界市民化プロジェクト
岡田:実は19世紀のクラシック音楽は、自由とか進歩とか、そういった市民社会のイデオロギーと結びついていた。「これが分かる教養人が文明人であり市民である」みたいなイデオロギーです。
片山:分からないと文明人として恥ずかしいという意識ですね。
岡田:「クラシック音楽帝国」の基礎になったのは、18世紀に始まった「世界市民化プロジェクト」だと思える。いわゆる啓蒙主義の下、世界中の人が「市民」になる夢。ベートーヴェンの《第九》が典型ですが、クラシック音楽はあの「世界市民の理想」のアイコンだったんじゃないか。私たち日本人だって、「不平等条約を改正して、一等国に仲間入りするためには『市民』にならなきゃいけない、そのためには西洋のクラシック音楽を聴かなくてはダメなんだ」みたいな意識でクラシックを受容してきたことは間違いない。
ところが、そういう数百年続いた世界市民音楽のイデオロギーが、21世紀にもう相当空洞化し始めた。世界中の人間が「市民=中産階級」の暮らしを始めたら、地球資源がパンクしてしまうことがもう明らかなんだし。それにウクライナ侵攻をめぐる国連の空洞化も、啓蒙理想の破綻といえるし。片山さんが待望する「世界の終わり」が近づいている感すらある。
片山:いやいや、私は、そのような恐ろしい世界を待望してはおりません(笑)。
岡田:いずれにせよ、クラシック音楽を一つの近代イデオロギーとして見るなら、どうしてバッハが「父」なのかよくわかる。これは世界市民化プロジェクトにおける「先祖探し」というか、「ルーツ探し」だったと思うんだよね。
片山:確かにそうですね。一種のルーツ探しで、そのルーツの上に、「市民」の権利である自由とか博愛とか平等とか、多くの新しい観念が乗っかっている。そして数々の束縛を克服することこそが、「市民」としての「進歩」であると考えるようになった。たとえば、複雑な和声進行を聴き分けるとか、対位法を理解するとかが、それにあたります。
岡田:対位法がわからないヤツは本当の「市民」ではない、とか。おそろしい(笑)。音楽は文学や美術と比べて抽象的だから、国境を越えやすいんだよね。国を越えて「世界市民」になるための格好の芸術媒体だったんでしょう。しかし同時に忘れてはいけないのは、19世紀にヨーロッパ発のクラシック音楽は世界中の音楽を標準化して回った、端的にいえば征服したということです。世界中のありとあらゆるエリア、インドでも、ベトナムでも、南米でも、あるいはエジプトでもトルコでも、あらゆる地域の音楽を全部、ヨーロッパ語法に変えさせた。
こんな「グローバル化」が音楽では早々19世紀に完遂されたもんだから、私たち日本人は、「彼のベートーヴェンは、いいですねえ」みたいな会話を交わして別に何の違和感も感じない。ニュートラルな万国共通語だと思ってしまう。ヨーロッパ・クラシック帝国の極東植民地における忠実なる臣民になってるのかもしれない(笑)。
そこへいくと、バッハ以前の1千年とは、ヨーロッパ音楽がこうした帝国主義的な野心をまだ抱き始めていなかった時代ではないのかなあ。
※岡田暁生・片山杜秀『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)から一部を再編集。