市川猿之助事件 緊急事態をわずか1日半で乗り切った澤瀉屋、先代が語った驚異の対応力の源
ピンチをチャンスに変える
だが、いくらなんでも、昨年8月は、誰もが公演休止か演目変更だろうと思った。
歌舞伎座の「弥次喜多流離譚」。市川染五郎&市川團子の美少年コンビ主演が話題となった。ともに若者と娘役の2役早替わりと、宙乗りがある。それが、2人ともコロナ感染。
このときも、猿之助はアッと驚く奇策で、休演1回で見事に再開させた。なんと、美少年2人を、一座のベテラン4人で演じ分けたのである。團子(18)の2役は、中村隼人(28)と、娘役:市川笑也(63)が。染五郎(17)の2役は、市川猿弥(55)と、娘役:市川笑三郎(52)が(年齢は当時)。
中村隼人はスラリとした美青年だから團子の代役にふさわしい。娘役もベテラン女形による代役だからわかる。驚いたのは市川猿弥の起用だった。失礼ながら、年齢的にも容姿的にも、どう見ても染五郎の代役とは信じられなかった。荒事やコミカルな役が得意な役者である。
こんな澤瀉屋の芝居はもう観られないと思い、二度目の鑑賞に行ってみた。
その場の幕が開いた。客席は大爆笑だった。あの猿弥が白塗りに金髪、イケメン暴走族風の衣装ですまして立っている。しかも、いかにも染五郎っぽく演じている。まじめにやればやるほど面白い。踊りの場面では、見事に「ウエスト・サイド・ストーリー」のパロディ・ダンスをこなした。意外と身軽ではないか! 風船をもっての宙乗りも実に楽しそうだった。観ているほうも幸せな気分になった。
よく「歌舞伎役者は、演技や踊りの基礎ができているし、子供のころから同じ演目をやってるから、どんな代役でもすぐできる」という人がいる。たしかにそうかもしれない。
だが澤瀉屋の演目は、ほぼすべてが「新作初演」である。
たとえばいま話題の明治座公演。昼の部「不死鳥よ波濤を越えて」は、宝塚レビューが原案である(1973年の甲にしき退団公演)。1979年に初演されたあと、今回まで一度も上演されていない。事実上の初演だ。しかも歌唱がある、一種のミュージカルである。この主役を、市川團子が休演2回の間に稽古してこなしたのだ。
夜の部「御贔屓繋馬」は、今回で四演目の人気作だが、初演時は5時間の超大作だった。それを今回は休憩含めて3時間に圧縮改訂したうえ、前回から約30年ぶりの上演なので、やはり新作も同然だった。
こちらは、これまた中村隼人が休演なしの代役でつないだが、千秋楽で主演を演じる予定だったので、ある程度、準備ができていたと思われる。これも先述の「交代出演システム」が機能したといえよう。
才能と稽古と好き
先代猿之助は1984年に『猿之助の歌舞伎講座』(新潮社/とんぼの本)を上梓している。宙乗りや早替わり、舞台機構や女形の見せ方などを、舞台裏写真をふんだんに使って明かした、ファン垂涎の解説書である。
その後、スーパー歌舞伎が始まったので、増補改訂版がつくれないかとの企画がもちあがった(残念ながら、ご本人の病気などもあり実現しなかった)。そのとき、編集者が雑談の流れで「役者さんは、急の代役のとき、どう対応されるんですか」と聞いた。すると、
「うち(澤瀉屋)は、稽古の分量がちがうので、自然と、ほかの役まで(身体に)入っちゃうんですよ。特に復活初演のときは、最後の数日間は、ほとんど全員、楽屋に泊まり込みです。立ち回りも一見複雑に見えますが、あれは振付けた踊りですから、これもすぐにできます」と、サラリと語っていたそうだ。
今回の明治座公演プログラムでも、ベテラン市川門之助が「猿翁さんが毎年四月に明治座で公演をしていた時には、いつもお稽古が深夜もしくは早朝までかかっていました」と思い出を綴っている。
名作狂言「菅原伝授手習鑑」に、こんな詞章がある――「上根(才能)と稽古と好きと三つのうち、好きこそ物の上手とは、芸能修業教えの金言」。
だが、猿之助二代が率いた澤瀉屋一座の場合は、この三つのすべてが金言だとしか思えない。でなければ、いままでの緊急事態をすべて乗り切るなど、とうていできなかっただろう。
今後の澤瀉屋一座がどうなるのかは不明だが、この対応力を生かして、ぜひ先代以来の“猿之助歌舞伎”をつないでほしいと、すべてのファンが願っているはずだ。
〈敬称略〉
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