「死んで生まれ変わろうと……」 独特な死生観を持つ市川猿之助と哲学者・梅原猛の関係

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スーパー歌舞伎の生みの親

 スーパー歌舞伎の第一作《ヤマトタケル》の初演は、1986年2~3月、新橋演舞場だった。

「いまでも覚えています。とんでもない舞台公演がはじまったものだと驚きました」

 と語るのは、ベテラン演劇記者である。

「いちばん印象に残ったのは、セリフが現代のことばだったことです。『途方もない大きなものを求めて、私の心は天翔けていたような気がする。そうだ! 天翔ける心、それがこの私だ!』なんて、いまでは名セリフとして知られていますが、最初は、正直、観ているほうが恥ずかしくなりました。しかも、それを堂々と口にしながら、白鳥の衣装で宙乗りするんですから、開いた口がふさがりませんでした」

 しかし、客席は2か月満席。以後、名古屋、京都、そして東京での再演につぐ再演。空前の大ヒットとなる。

「クライマックスで、大向こうの古参客ではなく、1階の中年女性軍団が涙を浮かべながら『オモダカヤー!』と叫んでいるのを見て、これは新しい客層が誕生したと感じました。第2作の《オグリ》でも、『私はロマンの病にかかっていたのだ!』なんてセリフがあって、これまた女性陣が感涙していた。猿之助は、明らかに従来の歌舞伎ファンを相手にしていない。松竹は大変な“打出の小槌”を手にしたと思いました」

 この独特な舞台を生み出したのが、先代市川猿之助(現市川猿翁)と、哲学者の梅原猛氏である。もともと親交があった2人だが、1980年の夏、『古事記』の現代語訳にかかっていた梅原氏から猿之助に「いいものを見つけたよ」と電話がくる。

「日本武尊だよ。これは最初、ヤマトタケルの双子の兄殺しから始まって、最後に白鳥になって翔びたつといった筋立てだから、はじめは早変わり、最後は君の得意な宙乗りも使える」(『市川猿之助 傾き一代』光森忠勝著、2010年3月、新潮社刊)。

 実はこれとほぼおなじ時期、梅原氏は先代猿之助について、こんな一文を寄せている。

「猿之助歌舞伎におしむべきことが一つある。それは、作者あるいは演出家猿之助が、役者猿之助に、はるかに及ばないことである。彼のような新しい歌舞伎の創造者には、真に新しい、すぐれた歌舞伎の脚本が必要なのである」(「芸術新潮」1980年7月号~特集「伝統芸術『賛否』両極の人」より)

 そして、こう結んでいる。

「私は、今の日本の演劇に不足しているのは、すぐれた俳優ではなくして、すぐれた脚本家、あるいは演出家ではないかと思う」(前同)

 どうやら、この「すぐれた脚本」とは、のちに自ら執筆する、スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』のことだったと思われる。

「そばに置いてほしい」

 当代猿之助は、この《ヤマトタケル》初演を小学生のときに観ている。

「学校を終えて劇場に駆けつけ、扉を開けたら、焼津でヤマトタケルが火攻めに遭っている場面が目に飛び込んできて、強烈に印象に残っています。何かとてつもなく新しいものが誕生した、と感じました」(「芸術新潮」2019年4月号~「緊急追悼特集/梅原猛」より)

 その後、中学生になると、梅原氏の著作にのめりこむようになる。あまりに読み込みすぎて、

「付き人とでもいうのでしょうか、そばに置いてほしいと思って、お宅を訪ねました。でも話を切り出す前に、君は歌舞伎の世界で梅原猛を生かしてくれ、と……。僕がどんな目的で訪ねて来たのか察したのでしょう。そういう方でした」(前同)

 2012年6月、自らの四代目猿之助襲名、さらに二代目猿翁襲名、九代目中車襲名の披露公演に選んだのが《ヤマトタケル》だった。それほど入れ込んでいたのだ。

 なにしろ猿之助は、梅原氏の全著作を読破しているばかりか、市川亀治郎時代の2006年にはなんと梅原氏との対論集まで出している。『神仏のまねき』(角川学芸出版)である。ここで2人は、歌舞伎の話題から神仏や怨霊まで、かなり高度な議論を交わしている。

 だが猿之助の場合、“梅原学”への傾倒は、「陰」への接近も意味していたようだ。

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