【名人戦第4局】「置いてきぼりの銀が泣いている」の渡辺名人に藤井六冠が異例の圧勝
「泣いていた」飛車
この日の副立会人で「ダジャレ棋士」で知られる福岡県在住の豊川孝弘七段(56)は、渡辺の駒組について「『7一銀』がね。銀が泣いている」と話した。
「銀が泣いている」は将棋ファンには周知の有名な台詞である。
戯曲や映画、村田英雄のヒット曲「王将」のモデルとしても知られ、明治から昭和にかけて活躍した関西の強豪・阪田三吉(1870~1946=贈王将・贈名人)の名言である。
1913(大正2)年にライバルの関根金次郎(1868~1946=十三世名人)との一戦で、阪田は関根に取らせて攻勢に出ようという意図で銀を動かしたが、それを見抜いた関根は銀を取らなかった。後日、阪田は「(あの銀は)ただの銀じゃない。それは阪田がうつむいて泣いている銀だ。それは駒と違う、阪田三吉が銀になっているのだ。その銀という駒に阪田の魂がぶち込まれているのだ。その駒が泣いている」と話した。この対局は阪田が勝ったのだが、大阪の丁稚奉公から棋士になった字もろくに読めない男が自らを駒に譬えた、将棋への並々ならぬ思いが籠められた後世に残る言葉となった。
今回の渡辺の銀は終始定位置に居たままで、あまり役に立たず、大役を担った坂田三吉の銀とは違った。居飛車での攻撃は銀を前進させることが多いが、今回、渡辺は銀を攻撃に参加させなかった。
敗局後に問われた渡辺は「作戦だった」と話した。ABEMAで解説していた八代弥(わたる)七段(29)は「銀を上げずに早く歩を『7四』に上げて、桂馬を『7三』に跳ねるのが名人の作戦だった」と説明した。渡辺は跳ねた桂馬をさらに「6五」に跳ねて藤井玉を脅かした。
攻撃の駒は銀よりも桂馬だったが、全体的に攻めが薄く、「置いてきぼりの銀が泣いている」という印象だった。とはいえ筆者には、銀以上に「泣いていた」のは渡辺の飛車に思えた。まったく暴れることができずに、角の紐が付いた歩に動きを封じられて終わったからだ。
藤井の69手目の王手「7五角」を見た渡辺は、右上方の天井をしばらく眺めてから投了した。まだ午後4時45分。これで即詰みになるわけではないが、渡辺は持ち駒ゼロで攻め駒も守り駒もない。これに対して藤井は、豊富な持ち駒で攻め手には事欠かない。名人戦としては異例の早さでの投了だった。
持ち時間が各9時間とタイトル戦では最長の名人戦では、2日目の午後5時に軽食を取るのが慣例だ。渡辺はその直前に白旗を上げてしまったのだ。当然、2人とも大きく持ち時間を残した。
直近の対局に全力投球する藤井
今回の第4局は、藤井に驚くほど鮮やかで見事な差し回しがあったという印象ではなかった。渡辺は対局後「選択肢としてどんどん悪い方向に行ってしまった。ちょっと早い時間に終わった。すぐに駄目にしてしまった。いい将棋を指せないといけない」と反省を口にした。
とはいえ、渡辺の攻撃を全く間違えずに応じる藤井の「盤石の受け」(豊川七段)は光っていた。素人目には凄い指し手があったようには見えなかったが、加藤一二三九段(83)は「藤井竜王の冷静かつ強気で最善の受けを見せてもらいました。8筋の玉頭に打たれた歩を、玉で取るのですから。驚かされました。よく考えてみれば、自玉の安全を読み切っていたのかもしれません」(日刊スポーツ5月22日付「ひふみんEYE」)と高く評価していた。加藤九段は「玉頭」と表現したが、前述したように藤井玉の隣の銀頭に「8七歩」を打ったことを指す。
対局後、藤井は「受ける展開が続き、はっきり勝ちが見通せるところはなかった。(63手目に)『6六角』と打ち、(渡辺名人の)攻めを受け止められそうな形になった」などと振り返り、「あまり見通しが立たなかった。攻められる展開になりやすいので、どうなっているか難しいと思ってやっていました」と、いつものように冷静だった。さらに今後の抱負を聞かれると「来週に第5局。その前に叡王戦の第4局があるので、いい状態でやっていきたい」などと話した。
名人戦第5局は5月31日、6月1日に長野県高山村の「緑霞山宿・藤井荘」で行われる。藤井が勝てば、谷川浩司十七世名人(61)の21歳2カ月という記録を40年ぶりに更新する「最年少名人」と、羽生善治九段(52)と並ぶ2人目の「七冠」が同時に決まる。5月28日には菅井竜也八段(31)の挑戦を受けている叡王戦五番勝負の第4局がある。ここまで藤井の2勝1敗だ。
相変わらずすさまじい対局予定だが、先に何が予定されていようが、まずは直近の対局に全力投球する藤井聡太の姿勢が表れている。
(一部、敬称略)