阪神はなぜ生え抜きの“叩き上げ”が育たないのか…高卒野手は「掛布雅之」以降、誰一人伸びない“厳しい現実”
「自分で努力して育たなあかん」
1970年の阪神ドラフト1位で、投手として活躍、現役引退後はオリックスでスカウト部長などの要職も務めた谷村智啓の阪神在籍時代(1971~1979年)は、掛布雅之が台頭してくる時期とちょうど、重なっている。
当時監督の金田正泰(京都/平安中/42年入団)は、掛布を高卒1年目で「開幕1軍」へ抜擢したのは「あいつはタイガースの将来を担う選手になる。二軍の環境で育ててはダメだ」という、指揮官自身の信念からだった。将来を見据えて、こいつを育てる。見抜き、信じ、我慢して使い続けるという、首脳陣の覚悟も重要なのだ。
掛布の高卒1年目、1974年は83試合で打率.204、3本塁打。これが2年目の1975年には、106試合で11本塁打、打率.246とステップアップし、3年目の1976年に打率.325でセ・リーグ5位、27本塁打を放ち、初のベストナインに選出されている。
谷村は、若き掛布が飛躍していくその姿を、間近で見ていたのだ。
「まあ悪いけど、ホンマ、ミスだらけやったわ。だけど、それを打つ方でカバーしとったし、スイングがもう違ったもんな。育てていくより、勝手にカケが育っていくんや。自分で成長しとるわ。使ってもらったおかげでな。誰も教えてへん。育つんや。育てる、育てるって、よく言葉は出て来るけど、自分で努力して育たなあかん」
場を与える。そのチャンスをつかみ、逃さない。その環境を整えるのが球団、選手はその場で“育っていく”必要があるのだ。
「差別はアカンけど、区別はする」
「育成」は「少数精鋭」と「多人数での競争」の2つに分かれる。少数精鋭の典型はヤクルトと日本ハムの2球団だろう。
ヤクルトの場合、村上宗隆の育成法に、その特徴が顕著に表れている。熊本・九州学院高時代は捕手だった村上の打力をさらに生かすために、ドラフト指名する時点で「三塁手」として育てる方針を掲げている。
1年目から、ファームで4番に据える。2年目に1軍昇格すると、ここでも「4番」に座り続ける。143試合にフル出場、36本塁打を放ったが、三振も184でこれはセ・リーグのワーストだ。それでも「将来の4番」としての位置づけは不動なのだ。
2023年から、15年ぶりに阪神監督として指揮を執る岡田彰布が、かつて2軍監督時代に育成の方針として強調したのは「差別はアカンけど、区別はする」。
すべての選手に、できるだけ平等に実戦機会を与え、練習環境も提供する。その大前提のもとでの「区別」とは、1番打者と4番打者では、鍛えるべきポイントもグラウンドで求められるパフォーマンスも違う。ならば、将来の4番打者と、つなぎ役の2番打者に対し、与える指示も、練習内容も違って当然なのだ。
ヤクルトは、いわば「区別」して、将来に想定される打順や守備位置にはめ込んでしまった上で、重点的に育てていくのだ。ただ少数精鋭の場合、ドラフト戦略がうまくいかなければ、チーム強化はままならない。
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