「一生、人殺しの息子として生きていきなさい」無理心中で残された息子に投げかけられた言葉

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 殺人事件において被害者と加害者とが「身内」である率は極めて高い。法務省の発表によれば、4割超が親族によるものだという。

 それはつまり、被害者の身内の多くが同時に加害者の身内という立場になることを意味している。このような複雑な状況に置かれた時、その人たちの心はどう動くのか。

 俳優の前田勝さんもそうした辛い経験をした一人である。18歳の時、愛人と暮らし始めた義父を母親が撲殺し、飛び降り自殺した。

 2023年3月、前田さんは事件が起きるまでの経緯とその後の日々をつづった単行本『遠い家族―母はなぜ無理心中を図ったのか―』を発表。ここでは、事件直後の心情、親族に投げかけられた言葉を赤裸々に描写した部分を一部抜粋してご紹介する。

【事件に至るまでの概要】
 前田さんは韓国生まれ。母は韓国人、父は台湾人。3歳の頃、両親は離婚。その後母親は一人で日本に出稼ぎに行って再婚。前田さんは12歳の時に母親に呼ばれて日本に。

 しかし2002年、義父の浮気により精神が不安定になった母は、夫を殺したのちに自死。大学入学を目前にした前田さんを襲った悲劇だった。

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周囲の冷たい視線

 そしてすぐに葬儀が行われた。喪服を持っていなかったため、高校の卒業式で着たスーツで参列した。会場内に入ると、周りからの冷たい視線を感じる。母と義父、親二人を同時に亡くした子供のつもりでいたが、この場に来て、初めて、いや改めて、自分の母が義父を殺した、その罪の大きさを感じることになった。受付で名前を書こうとすると、係をしていた義父の会社の社員から冷たい視線を浴び、胸に突き刺さる。そして、義父側の親族からの視線。喪服を着ているからなのか、異様なほど、重たく、怖く感じた。まるで義父を殺したのが僕のように思えた。

 そんな視線に囲まれて、案内されるがままに最前列に座る。目の前の右手には母の、左手には義父の棺が置かれていた。棺の上辺りに、それぞれの遺影が飾られている。無理矢理拡大された写真には、二人の笑顔がぼやけて写っていた。

 全員が着席したのを確認した司会が、式を進め、喪主の挨拶が始まった。喪主は、義父側の親族が務めた。涙を堪えながら参列者に挨拶をする姿を見て、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいだった。それから、お坊さんのお経が終わり、「故人に最後にお花を贈ってください」と、司会が言ったのをきっかけに、参列者が立ち上がり、一斉に義父の棺に向かった。

 最前列にいた僕を、みんなが後ろから追い抜くような形で、義父の棺に向かう。母のところには僕しか行かなかった。ああ、そりゃそうだよな、母が殺したんだもんな、とそんな言葉が頭に浮かぶ。

 いたたまれない思いを抱えながら、母の棺を覗いてみると、霊安室で見たときと同じように、母が眠っていた。これで母の顔を見るのは最後になる。そう思ったらまた涙が溢れてきた。義父側を見ると、親族や関係者がみんな泣いていた。それを見たらまた申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

母が殺してすみません

 僕の母が殺してすみません。すみません。本当にすみません。申し訳ありません。ごめんなさい。心の中で何度も何度も謝った。謝りながら母を見る。なんてことをしたんだよ。見てみろ、あの人たちの涙を。お前が殺したせいで、みんなが悲しい思いをしているんだぞ。そう罵りながらも、たった一人の母が亡くなったことに対して、涙が止まらないという訳がわからない感情になった。

 学校の先生方と、校長先生が参列してくれていた。義父のところに行ったあとに、母の棺にもお花を供えてくれた。それがほんのすこしだけ救いになった。先生の一人が、ずっと泣いている僕の手から花を取り、母の棺の中に入れてくれた。母のうっすらと開いている目を、閉じてあげようかと思ったが、怖くて触れられなかった。義父側の親族や関係者は、誰一人母の棺には来てくれなかった。

 僕が母の棺から離れないからか、司会の人がそっと僕に近づき、「あちらの棺にも行って、お顔を見てあげてください」と言ってきた。恐らくその人は気を遣って言ってくれたのだと思う。でも、お願いします、そんな酷なことをさせないでください。僕の母が義父を殺したんです。義父と僕には血の繋がりはないんです。義父の棺の周りには、義父と血の繋がった子供や親戚、会社の従業員がたくさんいます。僕をそこに行かせないでください。被害者のところに、加害者の息子を入れないでください。心の中で必死にそう叫んだ。

 僕が義父の棺のそばに近づくと、周りの人たちが一斉に一歩引いた気がした。みんな、僕を見ている。ごめんなさい。母がこんなことをしてごめんなさい。本当にごめんなさい。母がしたことへの申し訳なさと、周りの視線に耐えられなかったのと、義父の顔を見るのが怖かったのとで、棺の中に目を向けることができなかった。母が殺してしまった義父の顔を、どのような気持ちで見ればいいのかわからなかった。僕は訳もわからない感情のままずっと泣いていた。僕に泣く資格があるのかと思いながらも泣いた。

「一生、人殺しの息子として生きていきなさい」

 それから、すぐに義父側の親族から話がしたいと連絡があり、自宅で会うことになった。遅れるわけにはいかず、早めに家に着いて待つ。その間は、やはり空気が重く感じた。この家では義父しか亡くなっていないはずなのに、母と二人が死んだ家のように思える。電気を付けるには中途半端な時間帯だったため、薄暗いリビングで、到着を待った。

 僕よりすこし遅れて、義父側の親族4人と幼い子供1人が来た。これからきっとなにかを言われる。今でもなぜそんなことをしたのか説明できないけど、当時の僕はどうにかこの状況から逃れられないかと思い、幼い子供を笑わそうと変顔などをしていた。

 しかしそんなことで現実が変わる訳はなく、親族の女性から、「あの人も浮気というやってはいけないことをしたけど、それでも殺してしまうのは、絶対にあってはならないこと。あなたに言ってもしょうがないけど、あの女も自殺して亡くなった今、私たちは生きているあなたを恨むしかないの。私たちはこれからあなたを恨み続ける。あなたはこれから一生、人殺しの息子として生きていきなさい」と言われた。

 話をするのはその女性一人だけで、他の親族はじっと黙って僕のことを見ていた。その目から同じように思っていることが伝わってくる。薄暗いリビングというシチュエーションが、親族たちの思いをさらに際立たせている。僕はいつの間にか姿勢を正して正座をしていた。

 やっぱりそうだよな。火葬場での食事が和やかだったからって、母がやったことを許してもらえるわけがない。なのに僕は、突然その人たちの目の前で、幼い子供を笑わせようとしていた。それを義父の親族たちはどんな思いで見ていたのだろうか。

 そして最後に、「あなたも私たちに何か言いたいことある?」と言われた。まだ18歳だった僕は、母がしたことの重大さを、どう謝ればいいのかわからなかった。それでも、息子の僕が、母の代わりに謝らなければならない。僕は自分なりに精一杯の謝罪をさせてもらった。

 僕の謝罪が終わるなり、親族たちは帰っていった。事件が起きてから、初めて義父側の親族たちの思いを知り、母がしたことは、絶対に許されないことだったと改めて思わされた。そして、僕はこれから一生、人殺しの息子として生きていかなければならないのかと思うと、どうしようもない気持ちになった。

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前田 勝(まえだ しょう)
1983年、韓国人の母と台湾人の父の下、韓国で生まれる。7歳まで韓国、12歳まで台湾で暮らす。日本人と再婚した母に呼ばれて12歳で来日。大学入学直前、母が義父を殺して無理心中を図る。大学中退後、東京NSCに入学。卒業後は舞台俳優となる。客演の傍ら劇団を主宰し、母の事件を描いた舞台を上演。2018年、ドキュメンタリー番組「ザ・ノンフィクション」に出演し、母の生涯をたどる。同番組は北米最大級のメディアコンクール「ニューヨーク・フェスティバル2019」ドキュメンタリー・人物伝記部門で銅賞を受賞。2021年「茜色に焼かれる」(石井裕也監督)で映画初出演。舞台にも立ち続けている。

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関連記事(前編)【「顔中にガムテープの遺体が自宅に…」母親が起こした殺人事件を告白 当時18歳だった俳優の凄絶な過去

関連記事(後編)【義父の遺体を確認した僕に警察は「もう一人も確認を」と言った 被害者と加害者の身内になってしまった息子の手記

※前田勝『遠い家族―母はなぜ無理心中を図ったのか―』から一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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