「働かない社員」がいた方が企業は存続する? 数理物理学者が提言「社会には無駄な3割が必要」
無駄は条件によって変わる
例えば「受験生の読書」について考えてみましょう。高校3年生が受験とは直接的に関係がない自分の好きな本を読むことに没頭していたとします。その高校生が是が非でも東大現役合格を目指しているのであれば、その読書は無駄でしょう。しかし、浪人も構わないと考えているとすれば、多感な時期の読書は大人になった彼ないし彼女に大きな益をもたらしてくれるでしょうから、長い目で見れば決して無駄ではありません。
また、本の余白はどうでしょうか。文字情報を詰め込むという意味では、余白は無駄以外の何物でもありません。一方、その本を読んで思い付いたことを書き込むスペースとして、あるいは視覚的な読みやすさと考えると、余白はやはり無駄ではありません。
つまり、絶対的な無駄などというものは存在しない。無駄とは、条件によって変わる、あくまで相対的なものなのです。
不毛な社内議論が続いてしまう理由
では、何が無駄を規定するのでしょうか。それが「ニつの基準」であり、具体的には「目的」と「期間」です。受験生の読書でいえば、目的が東大現役合格なのか長期的な人格陶冶(とうや)なのか、また期間は1年以内にやってくる受験までの短期間なのか、人生が終わるまでという長期間なのか。この二つの基準が定まらない限り、受験生の読書が無駄であるか否かは決められないのです。
企業であっても同じことです。目的は何なのか。ある部署の業績アップなのか、それとも企業全体の地域貢献度を上げることなのか。期間は来月の売り上げアップなのか、それとも5年後の赤字脱却なのか。このニつの基準が明確でないから、延々と不毛な社内会議が続いてしまう。何が無駄なのかが定まっていないわけですから当然の帰結です。
従って、無駄を排除するにあたっては、何をおいてもニつの基準に関する合意を形成するところから始めなければなりません。これができていない限り、企業という船の航海中に障害物が現れた時、それをただよけ、また障害物が現れたらとにかくよけを繰り返すばかりで、どこに向かっているのか誰も分からない。それこそ無駄多き航海です。
部署ごとに仕事内容は異なるわけですから、最初はなかなか合意形成に至らないでしょう。ケンカ腰の議論になってしまうこともあるかもしれません。しかし、企業人全員に共通する目的が一つだけあります。それは自分がいる会社が潰れてほしくはない、ということです。部署間の利害調整がうまくいかずにもめた場合でも、この大元の目的に戻れば必ず無駄排除の合意形成は可能なはずです。
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