家康は弱腰すぎるし秀吉は媚び媚び…大河「どうする家康」はキャラ造形に違和感

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ほんとうの家康は先を読みしたたか

 家康は三方ヶ原では大敗したが、常に冷静な判断をしている。たとえば、信玄に不信感をもった永禄12年(1569)の時点で、すぐに信玄の宿敵の上杉謙信と接触をはじめ、翌元亀元年(1570)10月には、対武田氏を目的とした同盟を結んでいる。常に先を読むとともにしたたかなのである。

 ところが、第16話「信玄を怒らせるな」では、滅ぼされたくなければ「家臣になれ」という信玄からの伝言を受けとった家康が、「一人では決められぬ」からと、信玄の家臣になるべきかどうか重臣たちに打診した。そして「わしは信玄になにひとつ及ばぬ」と弱音を吐いたが、こんなに弱腰だったら、信玄と戦う前に重臣たちが離反していただろう。

 第15話「姉川でどうする!」も同様だった。浅井長政(大貫勇輔)と朝倉義景との姉川の合戦を前にして、長政から「信長に義はない、共に討ち取らん」という書状を受けとった家康は、迷った挙句、「わしは浅井長政につく。織田信長を討つ。いまなら討てる」と言い出したのだ。

 むろん、ここで家康が迷ったという記録はない。しかも、ドラマで家康が迷った理由がお粗末で、家康は「わしは浅井につきたい。浅井殿が好きだからじゃ。立派なお方じゃ」と言うのだが、この時代、そんなふうに迷った武将はたちまち滅んでいた。

「義」のために存亡をかける余裕はない

 浅井長政が当時、信長の妹の市を正室に迎え、織田家と縁戚関係による同盟を結んでいたのは事実だが、同時に朝倉家に従属する国衆でもあった。つまり、織田と朝倉に両属する立場だったため、織田と朝倉が争えば、どちらにつくかという選択を必ず迫られる。

 結局、長政は朝倉を選んだが、それはその時点で、みずからの領国を守るための最良の道を判断したということである。柴裕之氏は長政の選択について、「自身の地域『国家』存立に努めることが求められた戦国時代の大名や国衆らの持つ特質であり、そこから選択された結果である」と表現する(『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く』)。

 ドラマでは長政も、信長を裏切った理由を「信長には義がない」と語っていたが、戦国大名には「義」などのために存亡をかける余裕はなかった。

 それは家康も同様で、「立派なお方」だという理由で浅井につくという選択肢は、当時は皆無だった。ドラマでは家老の酒井忠次(大森南朋)に「義とはなんでござる?義なんてものはきれいごとだ!」と言われ、家康ははじめて気づくのだが、戦場には「義」だの「立派」だの「好き」だのという情趣が入り込む余地はない。

 家康も、浅井長政も、ドラマで描かれているよりも冷静かつ複雑だったことは疑いない。

 戦国大名が判断に次ぐ判断を強いられたのはまちがいない。その意味では、『どうする家康』というタイトルに違和感はないが、すでに述べたように、判断は常に冷静でないと、あっと言う間に敗者になった。視聴者の関心を惹くために、感情の起伏を誇張した感傷劇、すなわちメロドラマ仕立てにするのは、いかがなものだろうか。

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