10人の実力者をたった5分ほどで投げ飛ばし… 日本人が知るべき「フランス柔道の礎」道上伯の伝説(小林信也)
〈五十数年にわたってフランス・ボルドーを拠点に多くの柔道家を育てた「ミチガミ道場」は、道上伯(みちがみはく)が2002年8月に他界後も弟子たちが継承していたが、数年前に閉鎖された。これを惜しむボルドー市はこの春、「ハク・ミチガミ」の名を冠した柔道場を開く〉
この報せを私は道上の長男・道上雄峰から聞いた。おそらく日本のメディアはほとんど紹介していない。ヨーロッパ、アフリカ各国でいまなお敬愛される道上の存在を日本人の多くが知らない、知らされていない。それは戦後日本のスポーツ界が「オリンピックにおける日本の勝利」を最大の価値とし、メディアもそれに倣った傾向を象徴している。
【写真6枚】ヘーシンクが1961年パリ世界選手権で優勝した際の道上伯との2ショット
道上は柔道が五輪種目になる前の時代に、「生涯無敗」「実力日本一」と柔道家たちに恐れられた。当時は団体戦だけで、誰が真の日本一かを大会で競う機会もなかった。だが現在と違い、勝てば続けて勝ち抜きができた。道上は団体戦で度々ひとりでチームに勝利をもたらした。
「心技体」
フランス柔道連盟に請われてパリに渡ったのは、1953年、40歳の時だ。
欧米では、強さの評価が強迫的なまでに厳しい。過去の実績は信用されない。「いま強いこと」が彼らの尊敬のすべてだ。渡仏直後、パリのクーベルタン記念体育館に4千人の観衆が集まり、「道上来仏歓迎柔道大会」が開かれた。その時の逸話を雄峰が語る。
「パリにはインドシナ戦争で家族・友人を失った市民が大勢いた時代です。観衆は口々に『バット・ジャポネ(日本人をやっつけろ!)』と叫んでいた。殺伐とした空気の中で身長173センチの父が2メートル近いフランス人たちの挑戦を受けたのです」
当時、海外で柔道指導に当たる日本人の間では、痛切な言い伝えがあった。
「海外で一度でも負けたら柔道生命が終わる」
それほど評価が残酷なのだ。しかし、そんな警告に道上は怯まなかった。
「挑戦を受けないのは、柔道の精神に反します。パリで『日本人の柔道家』と言っても『本当にそんなに強いのか』と半信半疑でした。勝って証明しないと、とても指導はできません」
これは伯自身の回想だ。
4千人の前で道上は「十人掛け」を行った。フランスで強い方から10人の強豪を道上は次々と投げ飛ばした。猛者10人を顔色ひとつ変えずわずか5分40秒で片付けた時、「倒せ」の大合唱はスタンディング・オベーションに変わった。
「こんなに強い日本人がなぜ第2次大戦に負けたのか」とささやく声も聞こえたという。それこそが道上が外国に渡って活躍したいと願った理由でもあった。
「たった一度の敗戦で、日本の文化を失ってたまるか」
父の呟きを雄峰が聞いたのは後年だが、道上の生涯は、武道としての柔道が象徴する日本人の真の強さを継承し、体現し続けることにあった。スポーツ化し、本来の柔道が醸し出す気迫や真の強さを失った戦後柔道への激しい憤り。細分化された判定で勝てば賞賛される情けない風潮への絶望。「心技体」という言葉を初めて使ったのは道上だと語られている。心技体が生み出す力を磨くことこそ柔道の意義・目的だったはずだ。それを日本柔道界は忘れた。
道上はオランダでヘーシンクを見いだし、育てた師として語られる。64年の東京五輪で「日本柔道は負けた」と表現されたが、背後に道上がいた。それだけに日本柔道界は道上を疎ましい存在として扱った。
さらに、21年東京五輪で日本柔道はまた最終日、混合団体決勝でフランスに敗れた。しかし、その敗北は、個人戦ですでに9個の金メダルを取っていた浮かれ気分からか、ほとんど問題視されなかった。それほど日本の柔道界、そしてメディアは本質を見つめる力を失っている。
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