球史に残る伝説のプレー!敬遠球を“大根斬り”でホームランにした唯一の男、柏原純一
野村監督から「どや、ワシと一緒にトレーニングせんか」
申告敬遠制導入により、敬遠球も姿を消したが、かつては開幕戦サヨナラ暴投やタイトル争い絡みの満塁敬遠劇など、敬遠をめぐる記憶に残る場面も数多くあった。そんな“4球のドラマ”の中で、NPB史上、敬遠球を大根斬りでスタンドインのホームランにした唯一の男が、日本ハム時代の柏原純一である。【久保田龍雄/ライター】
1971年にドラフト8位で南海に入団した柏原は、3年目に1軍昇格をはたしたが、レギュラー獲り目前で足踏みが続いていた。大きな転機となったのは、76年のシーズン中だった。
野村克也監督から「純一、お前は4番を打てる素材や。お前は春先はええけど、毎年必ず中だるみする。同じ野球人の目から見てももったいない。どや、ワシと一緒にトレーニングせんか」と提案され、夫婦揃って同じマンションの隣室に引っ越したのだ(週刊サンケイ1978年2月16日号 柏原純一特別手記『さらば南海ホークス』)。
以来、野村監督は、酒を飲んだ柏原が夜中に帰ってきても、「純一は誰かが差し伸べて練習するきっかけを作ってやらなければ、一人じゃできない」と起きて待っていた。
そんなマンツーマンの特訓が功を奏し、同年は初めて規定打席に到達、打率.260、16本塁打を記録した。
パ・リーグを代表する強打者に成長
だが、翌77年9月末、野村監督は解任されてチームを去り、一兵卒としてロッテに移籍する。
柏原も恩師を慕い、ロッテ移籍を直訴したが、球団は認めず、日本ハムの小田義人、杉田久雄との1対2の交換トレードをまとめた。引退覚悟でトレードを拒否し、越年した柏原だったが、野村夫妻の説得もあり、翌78年1月下旬、移籍を決意すると、「さんざん迷惑をかけたから、プレーでお返ししないと」と新天地での飛躍を誓った。
その言葉どおり、移籍1年目に3番を打ち、24本塁打を記録した柏原は、80年には自己最多の34本塁打、96打点と、パ・リーグを代表する強打者に成長した。
さらに同年6月17日夜、知人の車に同乗して帰宅中、首都高速で交通事故を目撃した柏原は、車内に閉じ込められていたけが人をバットでドアのガラスを割って救出、警視庁から感謝状を贈られ、“場外ホームラン”と話題になった。
そして、選手会長、主将、4番と一人三役を務めた翌81年には、初の打率3割(.310)をマークし、日本ハム創設後初のリーグ優勝に貢献する。今も伝説として語り継がれている“敬遠球大根斬りホームラン”が演じられたのは、7月19日の西武戦だった。
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