YMOの3人を生んだ家庭環境 細野晴臣と坂本龍一、高橋幸宏の意外な違い

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200坪の日本家屋

 そんなに「全然違う」のか。高橋は、坂本と同年の1952(昭和27)年に、目黒区大岡山に生まれた(ただし学年は坂本が1年上)。

〈実家は裕福な家庭だった。実父は旭商事という味の素の容器を作る会社の社長をやっており、物心ついたときから200坪ある日本家屋に住んでいた〉(田中雄二『シン・YMO イエロー・マジック・オーケストラ・クロニクル1978~1993』DU BOOKSより)

 高橋本人も、こう回想している。

〈中学、高校でブッダズ・ナルシィーシィーというバンドをやったのが最初で。その時に軽井沢でキャンドル・ライト・パーティーという慶応大学の学生たちが主宰するダンス・パーティーがあって…それは僕の兄貴(高橋信之氏)がやってたんですけど。その時の対バン(共演バンド)だった慶応大学のバーンズというバンドに細野(晴臣)さんが参加していてウチの軽井沢の別荘に遊びに来たっていうのが、プロの道へ進む出会いになるのかな〉(ミュージック・マガジン2023年4月増刊号『高橋幸宏 多才なロマンティストの軌跡』より/初出は「レコード・コレクターズ」2006年9月号)

 さりげなく「ウチの軽井沢の別荘」であるが、その細野はどうだったか。

〈本人は「中流家庭だった」と語る細野家だが、しかしモダンな文化教養水準があり、ラジオも蓄音機もピアノもあった。生家があった白金には外国大使館が多く、外国人の友達といっしょに遊んでいた。(略)洋楽もFEN(米軍が基地向けに放送していた放送局「Far East Network」)で覚えた。むしろ歌謡曲はほとんど聞かない子供だったという。/母方の祖父、中谷孝男はピアノの調律師で、ロシアのレオニード・クロイツァーの日本におけるマネジメントも務めていた。母親の要請で、幼少期はピアノを習っていた〉(前出・DU BOOKSより)

 クロイツァーは戦前から戦後にかけて東京藝大教授をつとめ、多くのピアニストや作曲家を育てた名教師でもある。さて、「全然違う」と述べた坂本龍一だが、幼稚園は自由学園系の「東京友の会世田谷幼児生活団」に通っていた。

〈当時は白金に住んでいて、バスと電車を乗り継いで、ひとりで幼稚園まで通っていました。幼稚園児が都心を横切ってひとりで通園するなんて、きっと今ではかなり珍しいことですよね。(略)渋谷で乗り換えるときに、映画館に行ったりしていた。最近までプラネタリウムのあった東急文化会館、あそこの地下で10円のニュース映画が観られたんです〉(前出・新潮文庫より)

 なんと、幼稚園児が一人で電車に乗って映画を観に行っていたのだ。あるレコード会社のプロデューサはこう語る。

「昔、スタジオで、3人がそろっている場の末席にいたことがあるのですが、あまりに物静かなので、驚いたことがあります。もっとにぎやかな人たちかと思っていたら、なんだか哲学者のようでした。坂本さんは実際に“教授”なんてあだ名があるくらいですが、ほかの2人もすごく知的な雰囲気でした。最近、『「育ちのいい人」だけが知っていること』なんて本がベストセラーになりましたが、あの3人こそ、“育ちのいい”まま、大人になって年齢を重ねた人だと思います」

 その3人のうち、今年になって、高橋、坂本の訃報が相次いで伝わった。

 YMOの音楽は、「育ちのいい人」だからこそ生まれたものだったのだ。

〈敬称略〉

富樫鉄火(とがし・てっか)
昭和の香り漂う音楽ライター。吹奏楽、クラシック、映画音楽などを中心に音楽全般を執筆。東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラなどの解説も手がける。

デイリー新潮編集部

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