YMOの3人を生んだ家庭環境 細野晴臣と坂本龍一、高橋幸宏の意外な違い

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メンバー3人の家庭環境

 1912(明治45)年、北大西洋を処女航海中の巨大客船「タイタニック号」が、氷山に衝突して沈没。乗員乗客あわせて1500名余が死亡した。乗客のなかに日本人が一人いたが無事に脱出、生還する。細野正文――細野晴臣の祖父である。

 細野晴臣が生まれた1947(昭和22)年の前年、一人の小説家がデビューしている。左翼運動にのめり込む若者を描いた『暗い絵』。著者は野間宏。彼はやがてある編集者と出会い、戦後文学史に確固たる足跡を刻むことになる。編集者の名は坂本一亀――この3月28日、71歳で亡くなった坂本龍一の父だ。

 その野間宏は、1952(昭和27)年に名作『真空地帯』を発表する。毎日出版文化賞を受賞し、すぐに映画化された。その年、目黒区大岡山にある200坪もの豪邸に、ひとりの男の子が誕生する。1月11日に70歳で亡くなった高橋幸宏である。

 細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏――彼らは1978年に「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)を結成する。あのような音楽を生み出す人とは、いったいどんな家庭に生まれ育ったのであろうか。

「生還しなければ、僕は生まれていない」

 細野の祖父・細野正文(1870~1939)がタイタニック号唯一の日本人乗客で、沈没事故から生還した話はすでに有名だ。彼は鉄道院(現在のJR、運輸省の前身)の官僚だった。ヨーロッパを視察後、タイタニック号に乗って事故にあった。ところが、帰国後の正文は、非難の嵐にさらされる。

〈生還後に手記を出したイギリス人、ローレンス・ビーズリー氏の「無理やりボートに乗ってきた嫌な日本人がいた」という証言が独り歩きする。(略)細野氏のもとには全国から嫌がらせの手紙が舞い込んだ。そのため鉄道院を辞し、反論を試みることもなく、一九三九年に六十九歳で没した〉(「週刊文春」1997年12月18日号/引用は、安藤健二著『ミッキーマウスはなぜ消されたか 核兵器からタイタニックまで封印された10のエピソード』河出文庫より)

 細野家は、この非難の声に、戦後まで苦しむことになる。細野自身がこう述べている。

〈その時代の風潮をよく知りませんから、何ともいえないのですけれどね。しかし、それは僕にとっては大問題なんですよ。/祖父は当時まだ41歳で、帰ってきてから父が生まれたわけです。もし、生還しなければ、僕は生まれていない。これは宿命ですよ〉(Webナショジオ/2012年4月2~5日配信「タイタニック 祖父の真実」より)

 だが、この証言は誤りだった。後年、正文の日記が発見され、調査の結果、ビーズリー氏が目撃したのは、別の救命ボートの中国人だったことが判明するのだ。

〈当時のヨーロッパ人には、東洋人の区別がつかなかったでしょうし、日本人に対する偏見もあって、誤解が生じたんだと思います。/その調査結果は当時、手記の存在とともに新聞や雑誌でとりあげられました。(略)ずっとタイタニックにつきまとわれている感じでしたからね。/僕ばかりではなく、親戚一同が同じ気持ちでしたから、皆が一堂に会してお祝いをしましたよ。「ああ、これで終わった」と〉(前出・Webナショジオより)

 細野の、祖父に対する敬愛の思いが伝わってくる。宮沢賢治『銀河鉄道の夜』に、タイタニック号を思わせる船舶事故のエピソードが登場する。

〈船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。(略)ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました〉

『銀河鉄道の夜』は1985年にアニメーション映画となり、大藤信郎賞を受賞するなど、高い評価を受けた。船舶事故のシーンも印象的に描かれていた。この映画の音楽を担当したのが、細野だった。

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