大乱闘に暴動も発生!機動隊が出動した、今ではありえないプロ野球“遺恨試合”
「今日も博多に血の雨が降る」
翌74年には両軍ナインの大乱闘事件が勃発する。4月27日の川崎球場、1対1の4回に成田文男の左飛で本塁を突いたロッテの三塁走者・弘田澄男が、本塁ベース手前で太平洋の捕手・宮寺勝利に足を引っかけられるラフプレーが原因だった。一瞬宙に浮いた弘田は、一回転して地面に落ちた。
「あんなブロックがあるか。もし弘田の首の骨が折れたらどうするんだ」と怒り心頭の金田監督が宮寺に体当たりすると、今度は太平洋の助っ人・ビュフォードが金田監督に飛びかかる。これを合図に両軍ナインがあちこちで蹴り合い、突き合いを繰り広げた。太平洋の二塁手・基満男は「風呂に入ったら、背中にスパイクのあとがついた選手がたくさんいたらしい」(2023年1月21日付・西日本スポーツ)と証言している。
その後、太平洋は5月21日から始まる平和台決戦を前に、金田監督とビュフォードの乱闘シーンを写真に使い、「今日も博多に血の雨が降る」と挑発的なコピーをつけた宣伝ポスターを作成したが、福岡中央署から「昨年のような騒ぎはもう御免です」と釘を刺され、撤去している。
にもかかわらず、5月23日のダブルヘッダー第2試合でロッテが勝つと、前年同様、ファンが騒動を起こし、ロッテナインは再び球場に缶詰になった。
32万人から87万6000人に大幅アップ
実は、これらの“遺恨試合”は、太平洋と金田監督がパ・リーグの人気を盛り上げるために仕組んだものだった。仕掛け人は、中村長芳オーナーとともにロッテから太平洋に移ってきた青木一三球団専務である。
青木氏は自著『ダイエー/オリックス球団買収の真相』(ブックマン社)の中で、「福岡、博多と言えば祭りと喧嘩の本場。球場へ足を向けさせるには、客を興奮させるような仕掛けが要る。うまい具合に太平洋のフロント陣は、主要メンバーがみんなロッテとの出身者。これを利用して、太平洋とロッテを喧嘩させようと考えたのである」と回想している。
当時のパ・リーグは不人気を極め、73年から人気挽回策として前期、後期の2シーズン制を導入したばかり。金田監督も「パ・リーグの灯を消してはいかん」の思いから、太平洋側の提案に「よっしゃ!」と応じた。
だが、“遺恨試合”を売りにしても、チームが勝たなければ意味がない。青木氏は稲尾監督に「とにかく1ヵ月限定でいいから、優勝を狙う位置にいてくれ。あとは負けてもいいから」と指示し、これも思惑通りの展開になる。また、金田監督以外には真相を知らされなかったため、ファンはもとより、前出のビュフォードのように選手もエキサイトした。
“遺恨試合”をガチだと思い込んだファンがヒートアップして、騒動が社会問題になったのは計算外だったが、同年の太平洋の入場者数は、西鉄時代の前年の32万人から87万6000人に大幅アップと、狙い自体は大当たりだった。
プロレスもビックリの“遺恨試合”が本当にあった時代。改めて「昭和プロ野球」の特異性を実感させられる。
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