大乱闘に暴動も発生!機動隊が出動した、今ではありえないプロ野球“遺恨試合”

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ヘルメットをかぶって守備に

“遺恨試合”といえば、プロレスをはじめ格闘技を連想する人も多いはずだが、今から50年前のプロ野球にも、“遺恨試合”と呼ばれた注目カードがあった。【久保田龍雄/ライター】

 1973年から74年にかけて太平洋(現・西武)と金田正一監督率いるロッテの対決は、機動隊が出動する騒ぎが起きるなど、大荒れに荒れた。きっかけとなったのは、73年5月3日、川崎球場の試合だった。

 昭和30年代に黄金時代を築いた西鉄に代わって、太平洋クラブを新スポンサーに再出発した“新生ライオンズ”は、開幕5連勝と波に乗り、5月2日の時点でも2位・ロッテにゲーム差なしながら、首位を守っていた。

 前年まで3年連続最下位だったチームの“確変”に、西鉄時代からのファンは熱狂し、4月28日からの日拓(現・日本ハム)戦は、3日間4試合で入場者数13万1000人、30日には、パ・リーグの試合では後楽園球場開設後初の4万人を記録した。そして、5月3日の首位攻防戦、ロッテ戦も3万人が入場し、満員札止めとなった。

 だが、試合はロッテが4回に3連続弾などで7点を奪い、6回までに11対2と大差をつけた。7回、一方的な展開に憤懣やるかたない太平洋ファンが、グラウンドに瓶や缶、座布団などを次々に投げ込み、試合が9分中断する。

 ロッテのサード、有藤通世ら3選手は、8回から異例のヘルメットをかぶって守備に就いたが、騒ぎは収まらず、有藤はやむを得ず三遊間近くまで移動した。

「金田、出てこい!」

 2対12の9回、太平洋が無人の三塁線にバント安打を決めるなどして5点を返すと、金田監督は「9回の得点はなしにせんとあかん。本当にド百姓チームや。そんなにしてまで勝ちたいかね」と口を極めて非難し、ファンの説得に協力しなかった稲尾和久監督にも、「ワシはあんな人間乞食は初めて見た」と暴言を吐いた。

 太平洋側も黙っていない。5月7日、「金田監督の発言は、公人としての見識に欠けており、稲尾監督に責任転嫁するものだ」として、パ・リーグ会長宛てに要望書を出し、5月下旬にも「金田監督が『九州のファンは田舎者でマナーを知らない』と発言した」と公表したことから、地元ファンはますます「金田憎し」で凝り固まった。

 そんな矢先の6月1日、太平洋の本拠地・平和台球場の試合で、機動隊150人が出動する騒ぎが起きる。

 ロッテが5対2で勝った試合後、怒り狂った多数のファンが「金田、出てこい!」と通用口を封鎖したため、ロッテナインは監禁状態になり、午後11時過ぎ、機動隊に護衛され、ようやく脱出に成功した。

「ワシも長いこと野球やってきたけど、生涯で最も不愉快な日や」。“ヒール役”金田監督の舌鋒も鋭さを増し、このころから“遺恨試合”という言葉も定着しはじめた。

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