YMO「伝説の海外ツアー」を松武秀樹氏が語る BEHIND THE MASKの演奏で重大なトラブルが…その時メンバーはどうしたか

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YMO第4のメンバー

 日本の音楽史を振り返ると、クラシックやジャズでは世界に通用するミュージシャンを輩出してきたが、単独の海外公演を成功させたアーティストは皆無だった。

 ところがYMOは、ポップ・ミュージックの文脈に位置づけられるバンドでありながら、海外公演を立て続けに成功させた。文字通りの偉業であり、少なからぬ日本人が高い関心を示し、いわゆる“逆輸入”の形でYMOのサウンドに熱狂した。

 海外ツアーの成功がYMOのブレイクにつながったという指摘が多いのは当然だと言える。冒頭に紹介した川添さんの証言は、その代表例だろう。

 YMOが成功した原因として、3人の非凡な才能を挙げる声は非常に多いし、当然のことだろう。だが、それだけが原因ではない。

 海外ツアーもそうだが、多くの関係者が献身的にバックアップしたからこそ、歴史に残るバンドになった。中でもサウンドへの大きな貢献から「第4のメンバー」と呼ばれたのが、シンセサイザープログラマーの松武秀樹さん(71)だ。

 松武さんに2回の海外ツアーを振り返ってもらうと、そもそも「めちゃくちゃなスケジュールの中で実施されました」という。

アメリカ版の影響力

 まず時系列を振り返ると、YMOは1978年11月、ファーストアルバム「YELLOW MAGIC ORCHESTRA」をリリースした。

 当時、アルファレコードは、アメリカの大手レーベルA&Mレコードと業務提携を行っていた。YMOのファーストアルバムを音楽プロデューサーのトミー・リピューマ(1936~2017)が評価したこともあり、アメリカ進出が決まる。

 そのためアメリカ向けにリミックスした「YELLOW MAGIC ORCHESTRA(US盤)」が、79年5月にA&Mレコード傘下のホライゾン・レーベルから発売された。ジャケットのデザインから「電線芸者」と呼ばれているのは、ファンならよくご存知だろう。

 一方、YMOの3人は、79年3月からセカンドアルバム「SOLID STATE SURVIVOR」のレコーディングを開始していた。

 8月にロサンゼルスで演奏し、9月にセカンドアルバムをリリースすると、オリコンのアルバムチャートで1位を獲得、100万枚を超える大ヒット。そして10月にワールドツアーを敢行したのだ。確かに松武さんが言う通り、尋常なスケジュールではない。

「僕の記憶では、ファーストアルバムの録音時に海外ツアーの話は出ていたはずです。ただ、それが具体的なものとして動いたのは、やはり『電線芸者』のサウンドにみんなが手応えを感じたからだと思います。アル・シュミット(1930~2021)というエンジニアがトラックダウンを担当しましたが、ディスコサウンドがよりはっきりと打ち出されました。もともとYMOのサウンドは、中国風でも東洋風でもなく、まさに摩訶不思議、国籍不明という印象を与えるものでした。US版は、そうしたサウンドは守りつつ、非常にダンサブルなものとして生まれ変わったんですね。これがアメリカのリスナーを惹きつけた理由の一つだと思います」

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