YMO「第4のメンバー」が語る“若き日の坂本龍一さん” 出会いは渋谷公会堂のイチベル制作、モーグⅢCを巧みに使いこなした衝撃

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ファーストアルバム

 アルファレコードの「Studio A」と言えば伝説のスタジオだが、当時はごく普通のレコーディングスタジオだった。

 そこに松武さん、細野さん、高橋さん、坂本さんが持っていたシンセサイザーを搬入すると、たちまち世界トップクラスの「シンセ専門スタジオ」が誕生した。

 最初に録音を開始したのは、やはり「Firecracker」だった。アルバムでは2曲目に収録されたが、1曲目の「COMPUTER GAME "Theme From The Circus"(コンピューター・ゲーム“サーカスのテーマ”)」は1分48秒と短い。一種の“イントロ”と考えると、「Firecracker」が実質的に最初の曲となる。

「スタジオにあれだけシンセを並べてレコーディングしたのは、恐らく世界でも初めてだったのではないでしょうか。その時、細野さんは、坂本さんが『千のナイフ』のレコーディングでローランドMC-8を使っていたのを知っていました。そこで『Firecracker』のレコーディングでは、MC-8に自動演奏させたいというアイディアを出してきたんです。細野さんはMC-8に機械らしい正確無比なシークエンス(註:音のひとかたまり、反復進行)を演奏させ、何が起こるのか見たかったのでしょう。そして実際の音を聴いて、手応えを感じたのだと思います」

 1978年11月、ファーストアルバム「YELLOW MAGIC ORCHESTRA」がリリースされた。

アメリカツアーが決定

 当時のアルファレコードは、アメリカの大手レーベルA&Mレコードと業務提携を行っていた。ファーストアルバムを音楽プロデューサーのトミー・リピューマ(1936~2017)が評価したこともあり、アメリカ進出が決まる。

 一方のYMOは、1979年3月からセカンドアルバム「SOLID STATE SURVIVOR」のレコーディングを開始した。

 5月にはアメリカ向けにリミックスした「YELLOW MAGIC ORCHESTRA(US盤)」がA&Mレコード傘下のホライゾン・レーベルから発売された。ジャケットのデザインから「電線芸者」と呼ばれている。

 そして8月2日、YMOはロサンゼルスのグリーク・シアターでライブを行う。さらに10月には初のワールドツアー「YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR(トランス・アトランティック・ツアー)」をロンドンからスタートさせた。

 続く2回目や3回目では、まさに伝説となったYMOの海外ツアーの裏舞台や、YMOサウンドの本質などについて話を訊いた。

第2回【YMO「伝説の海外ツアー」を松武秀樹氏が語る BEHIND THE MASKの演奏で重大なトラブルが…その時メンバーはどうしたか】、第3回【坂本龍一さんの本質とは それは私が出会った頃から最後まで変わらなかった【松武秀樹氏の証言】】に続く。

デイリー新潮編集部

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