YMO「第4のメンバー」が語る“若き日の坂本龍一さん” 出会いは渋谷公会堂のイチベル制作、モーグⅢCを巧みに使いこなした衝撃
アルバム「千のナイフ」
後で分かったことだが、東京藝大でもモーグⅢ-Cを購入していたため、坂本さんも操作する機会があったのだ。
「僕の操作方法とは全く違うので、本当に勉強になりました。何より坂本さんはピアノが本職ですから、キーボードを巧みに使って音を設計するんです。当時の僕は鍵盤が弾けなかったから、『やはり鍵盤は使えるようにならないといけないな』と痛感しました」
その後、CM音楽の録音などで何回か坂本さんと一緒に仕事をしたが、詳細は覚えていないという。
その次の仕事は明確な記憶として残っている。坂本さんは1978年10月、初のソロアルバム「千のナイフ」を発表。そのレコーディングで松武さんはコンピューターオペレートを担当したのだ。
アルバムのライナーノーツなどによると、レコーディングは日本コロムビアの第4スタジオで行われ、78年4月から延べ339時間を費やしたという。だが松武さんは「1年間とか半年とか、延々と録音していたような感覚が残っています。それくらい大変でした」と振り返る。
「しかも夜しかレコーディングを行わないんです。なぜ夜中に作業を行うのか、当時は忙しくて聞けませんでした。後になって分かったんですけれど、昼間のスタジオは他のミュージシャンが普通に使っていたんですね。夜にレコーディングする人なんてほとんどいないので、“スタジオの空き時間”を利用して坂本さんはアルバムを制作したわけです」
今でこそ「千のナイフ」は傑作アルバムという評価が定着している。だが、当時はセールス面で苦労するなど、成功という評価は得られなかったという。あまりにも先駆的過ぎたようだ。
YMOに参加
話は前後するが、1978年2月19日にYMOが結成され、7月からファーストアルバム「YELLOW MAGIC ORCHESTRA」のレコーディングが始まった。
ファンには有名なエピソードだが、細野さんはYMOのサウンドイメージとして、作曲家マーティン・デニー(1911~2005)の「Firecracker」をディスコアレンジでカバーするという構想を練っていた。
細野さんが使っていたノートには「『ファイアークラッカー』をアメリカで発売し、売り上げ目標400万枚!」と書かれていたという。
「細野さん、幸宏さん、坂本さんは“人力”で『Firecracker』を演奏し、録音も行ったと聞いています。ところが僕は、その音を一度も聞いたことがないんです。なぜかと言えば、多分、マスター音源を捨ててしまったんでしょう。細野さんが考えているようなサウンドにはならなかったのだと思います」
アルバム「YELLOW MAGIC ORCHESTRA」のレコーディングが始まる直前、細野さんのマネージャーから松武さんに連絡があった。「うちの細野がレコーディングを見学したいと言っているんですが、よろしいですか?」という問い合わせだった。
「あの細野さんが来るんですから断るわけがないじゃないですか(笑)。僕だけじゃなくてスタッフも舞い上がって、大騒ぎして、当日になると全員が緊張しました。約1時間、細野さんは作業を見て、シンセを試し弾きしたりして、『いいね』と言って帰られた。『本当に見学だけで仕事の話じゃなかったのか……』と落胆していたら、2~3日するとマネージャーさんから『お時間はありますか?』と仕事の打診がありました。『時間はあり余るくらいあります』と答えると、『すぐにアルファのスタジオに入ってください』と指示されたんです」
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