YMO「第4のメンバー」が語る“若き日の坂本龍一さん” 出会いは渋谷公会堂のイチベル制作、モーグⅢCを巧みに使いこなした衝撃
モーグと格闘の日々
当時、モーグⅢ-Cは「マンションが買えるくらいの価格」とも言われ、冨田は銀行から融資を受けて購入したという。
「個人がモーグⅢ-Cを購入したのは、日本では冨田先生だけでした。他は東京藝術大学など音楽の教育機関が研究用に購入したようです。モーグⅢ-Cは先生の自宅のスタジオに搬入することになっていましたが、現物が届くと先生は『まずは床の間に飾ろう』と仰って、みんなで運んで記念撮影をしました(笑)。その頃の先生はCMとドラマの音楽を幾つも掛け持ちしていて非常に多忙でした。たちまちモーグもフル回転となりましたが、さすがに夜は使いません。僕が『夜に操作させてくれませんか?』とお願いすると、先生は『いいよ』と快諾してくれたんです」
モーグは「パッチ」と呼ばれるケーブル配線や「パラメーター」と呼ばれるツマミを回して音を作る。
「先生は演奏を終えるとパッチを外し、パラメーターも全てゼロにするんです。『君が僕と同じ音を作れたとしても、それが何の役に立つのか。同じことをやっても仕方がないだろ。だから自分でゼロからやりなさい』と言われました。とはいえ、モーグは回路図があるだけで説明書もありません。まさに試行錯誤の毎日でした」
日中は冨田の“弟子”として楽器をテレビ局やスタジオに搬入するなど様々な雑用をこなした。
夜になるとモーグの操作に没頭、そのままモーグの横で寝てしまうことも珍しくなかったという。「モーグはトランジスターで動くので、操作すると発熱して暖かいんです。冬でも毛布がいりませんでした」と松武さんは笑う。
坂本龍一との出会い
シンセサイザープログラマーとして研鑽を積んだ松武さんは1974年に独立。たちまち多くのミュージシャンから仕事の依頼が殺到した。
そんな中、松武さんの記憶によれば「独立した74年か翌75年」に、渋谷公会堂(現:LINE CUBE SHIBUYA)の件で、音楽プロデューサーの寺本幸司さん(84)から相談を持ちかけられた。
「開演5分前に鳴らすベルのことを『イチベル』と呼びますが、当時の渋谷公会堂は『ブー』というブザー音を鳴らしていたんです。あまりに無機質で味気ないということになって、新しく鐘の音を作ることになった。僕はシンセサイザーの操作を打診されたのですが、その時に作曲担当としてスタジオに来たのが坂本さんでした」
坂本さんは74年に東京藝術大学の音楽学部作曲科を卒業すると、同大学の音響研究科修士課程に進み、76年に修了した。
前年の75年からスタジオミュージシャンとしてキャリアをスタートさせ、この頃はシンガーソングライターのりりィ(1952~2016)のバックバンド「バイ・バイ・セッション・バンド」に参加するなど、既に音楽業界では注目されていた。
ちなみに、渋谷公会堂の件で松武さんに連絡を取った寺本さんも、りりィのアルバムでプロデューサーを務めている。
「坂本さんの第一印象は、とにかく髪の毛が長いし、はっきり言って服装が汚かった(笑)。足元なんて下駄かサンダル履きだったと記憶しています。最初は無愛想でしたけど、仕事が始まるとコミュニケーションはちゃんとしてくれる。音作りの段階になって『どうします?』と聞くと、『とりあえず松武さんが鐘の音を作ってください』と言われたので作りました。すると坂本さんは『じゃあ、僕が音を変えますね』とモーグを操作したんです。これには驚きました」
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