YMO「第4のメンバー」が語る“若き日の坂本龍一さん” 出会いは渋谷公会堂のイチベル制作、モーグⅢCを巧みに使いこなした衝撃

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電子音楽の衝撃

 松武さんは横浜市に生まれた。父親の静夫さんはジャズのテナーサックス奏者で、人気ジャズバンド「原信夫とシャープス&フラッツ」の結成に深く関わったことでも知られる。

 幼い時から音楽業界に近い環境で育ち、松武さん自身も中学生の頃からトランペットを演奏していた。ところが1970年、いわゆる「電子音楽」と衝撃的な邂逅を果たす。

「1970年の3月に大阪万博が開かれました。ちょうど高校を卒業する時期だったので、友人たちと一緒に2泊3日の大阪旅行をしたんです。アポロ12号が持ち帰った『月の石』が見たかったのですが、大混雑で数十秒しか見られませんでした(笑)。僕ら全員が音楽好きだったので、大阪市内のレコード屋さんも回りました。その中の1店舗で、奇妙奇天烈な音楽が流れていたんです」

 レコード店で流れていたのが、伝説のアルバム「Switched-On Bach」だった。後に性転換してウェンディ・カルロス(83)と改名するが、この頃はウォルター・カルロスを名乗っていた。

 モーグ・シンセサイザーを使ってバッハの名曲を演奏したアルバムは、大きな反響を呼ぶ。アルバムはグラミー賞を受賞し、カルロスは映画「時計じかけのオレンジ」(71年)、「シャイニング」(80年)、「トロン」(82年)のサントラを担当するきっかけとなり、シンセサイザーの音色を世界に広めることになった。

「友人たちは全く興味がないので、『松武、次の店に行こうよ』と誘います。しかし僕は『これは面白い音だからアルバムを見たい』と言って、確か購入した記憶もあります。店員さんに『この音を鳴らしている楽器は何ですか?』と質問しましたが、『トランペットじゃないんですか?』と逆に訊かれたりして要領を得ない。ネットもない時代のことです」

冨田勲に弟子入り

 横浜に戻った松武さんは、ヤマハが経営するレコード店に行って同じ質問をすると、「シンセサイザーという楽器です」と教えてもらった。

「その頃ヤマハはモーグの輸入代理店で、カタログを見せてもらうと巨大な機械の固まりが写っている。それがモーグⅢ-Cでした。プロモーションビデオなんて存在しませんから、どうやって音が出るのかも分からない。それでも『将来こんなものを使って仕事ができればいいな』とぼんやり考えたんです」

 もともとラジオを自作したり、エレキギターの原理に関心を持ったりと、電気関係の勉強をしたいという思いが強かった。高校教師には大学進学を勧められたが、「電気と音楽」を学ぶべく電気工学の専門学校に入学。将来はテレビ局のカメラマンかスイッチャーになりたいと考えていた。

 ところが、専門学校を卒業する直前に大きな出会いが訪れる。松武さんの父親はミュージシャンを引退し、芸能事務所のホリプロに勤務していた。そこに作曲家・冨田勲(1932~2016)の「妻の弟」という男性が働いていた。冨田は日本におけるシンセサイザーアーティストの草分けとしても知られる。

「父親が『音楽と電気が好きというどうしようもない息子がいるんです』と相談すると、『じゃあ、事務所の社員になる?』という感じで話がまとまり、冨田先生の事務所に入社することになりました。僕は71年4月に入社したのですが、非常に幸運なことに、ちょうど冨田先生がモーグⅢ-Cを購入した時で、その搬入に立ち会うことができたんです」

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