全員集合「チョットだけヨ」50周年 加藤茶が語った“秘話”とブームの“裏側”

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「いいねえ、汚らしくて。もっと泥臭く!」

 岡本章生とゲイスターズのリーダー、岡本が吹くトランペットに、いかりや長介は上機嫌だったという。

 その曲、ペレス・プラード楽団の「Taboo」と聞いてもピンとこない方が多いかも知れない。だが、加藤茶(80)の「チョットだけヨのBGM」といえば、誰もが頷くのではないか。

 驚異的な視聴率と共に、数々の名物コーナーやコントを生んだ「8時だョ!全員集合」(以下「全員集合」=TBS系)初期のギャグ「チョットだけヨ」が大ブームとなって今年で50年となる。最近は45歳下の妻、綾菜さんとバラエティ番組で仲睦まじい姿を見せている加藤茶。天才コメディアンが送り出した、日本のバラエティ史上に永遠に刻まれるであろう、あのコーナーはいかにして生まれたのか。

土曜日8時の戦い

「全員集合」が放送された土曜日の午後8時は、業界では「土八(ドハチ)」と呼ばれ、テレビ局にとってはゴールデンの中のゴールデン、文字通りの看板枠である。この枠は長らくTBSとフジテレビが覇権を争っており、「土八戦争」と呼ばれていた。

《1968年からフジテレビで始まった「コント55号の世界は笑う」が、バラエティ番組初のカラー放送として、そしてコント55号の人気も加わって、視聴率30%を稼ぐ番組になりました。しかし、翌69年に「全員集合」が始まり、70年に「世界は笑う」は視聴率で抜かれ、その年の3月に終了……これが第1期・土八戦争です》(三宅恵介「ひょうきんディレクター、三宅デタガリ恵介です」(新潮社)より)

「土八戦争」は、フジテレビが「オレたちひょうきん族」を送り出す1981年まで、「全員集合」を放送していたTBSの圧勝だった。だが、当初から順風満帆なスタートだったわけではない。コントをメインにしていたが、ゲストを交えてのトーク・コーナーやゲームなど、雑多な構成だった。

「笑芸人1999冬号」(白夜書房)によると、「全員集合」がブレイクするきっかけになったのは1970年1月。当時、TBSで放送されていた人気番組である「サインはV」「柔道一直線」「キイハンター」などの出演者とのコント共演や対決モノを展開して視聴率を上げていった。

 また、ミュージシャンとしてのザ・ドリフターズにも人気が出始め、シングル「ミヨちゃん」が大ヒット。さらに「ドリフのズンドコ節」は115万枚も
売り上げ、同年の日本レコード大賞大衆賞を受賞した。

《71年に入り、その人気はますます過熱。1月21日には「全員集合」の視聴率が50・1%をマークするまでに。この時のいかりやは「うれしいというより怖い」という正直すぎるコメントを残している》(前掲誌)

 ところが、ドリフが所属していた渡辺プロダクション(当時)の意向により、3月27日に「全員集合」は終了し、同枠にはクレイジーキャッツの新番組を、ドリフターズは日曜夜7時に日本テレビでレギュラー番組をスタートさせる。だが、どちらもうまくいかず、同年10月2日より、TBSで「全員集合」が再開となった。

 このきっかけというかタイミングが「歴史に残るギャグを生んだ」といっても過言ではないだろう。

 再開後の「全員集合」は、ドリフのメンバーとスタッフの間にしこりが残り、いかりやとプロデューサーの居作昌果氏が大げんかすることもあったという。そんなギスギスした状況を吹き飛ばしたのが、加藤のギャグだった。

 1972年に入ると、その天性のコメディアンセンスに火がつき、数々のギャグを生み出すのである。

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