「余命わずかな父との穏やかな時間がきっかけ」 ファッションの世界にいた福田春美が「ブランディングディレクター」という仕事にたどり着いた理由
多動症と難読症の傾向
フードカルチャー誌「RiCE」に連載を持ち、そのライフスタイルが多くのひとを魅了する、福田春美さん。華やかなファッションの世界から、ブランディングディレクターなる現在の職にたどり着くまでには、身近な人の最期に寄り添う、特別な経験があった。どんな時間が、今の彼女を作ったのか。
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私は小さい頃から30代までは生きるのが下手だった。今も生きていることが上手とはいえない。子供の頃、今でいう多動症の傾向があり、文字が頭で理解できない難読症気味で、普通に人がその年齢でできることができない自分だった。好きなものがはっきりし過ぎていて、好きなこと以外はできない。人嫌いなのにかまってほしい、自分の感情のコントロールも難しく、沢山苦しんだ。思春期から20代くらいでは人には気付かれないようにしていても、周りにはダダ漏れのように気付かれていた。恥や過ちもあったのに、それを認めることができず、自分を責めてもいた。
30代まではファッションディレクターというお仕事をしていて、その独特な世界に居たので、“プラダを着た悪魔”という映画は笑って見れないくらい、当時の自分があの作品の中に見え隠れする。その頃はハイヒールの音がヒステリックだとも言われた。
余命わずかな父が…
40歳を前に、自分の態度と発した言葉で、ゆっくりと人が離れていくことを静かに感じたタイミングで、父が余命1年となり、抗がん剤治療もやめて、家で死にたいと言い出した。父は東京の大学を出て、その後サラリーマンとして長く勤め、最後は家業を継いだものの、学生時代から茶の湯や禅、民藝の世界が好きで書斎はそうした本の山だった。私が小さい頃は玄米食でたんぽぽ珈琲があったり、欲しかったキャラクターの自転車も買ってもらえず、ブルーグレーのカゴ付きの自転車が与えられた。今となっては趣味のいいご家族ですね、と言われるけれど、その当時でもまだ周りにそんな人いなかったし、その頃の幼い私は周りの友達との違いに悩んでいた。
そんな父が、余命わずかとなった時、家で最期の時間を家族と共に過ごすという考え方のNPOを自分で探してきて、そこから1年かけて家でゆっくり最期の時間に向かっていく。
父が亡くなる前の最後の2カ月、私は長期の休みをとって、実家に珍しく長く滞在し、家族と看病をしていた。リビングに介護ベッドを入れ、寝ている父から見えるように父の好きな焼締めの壺や器を置いたりした。
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