武藤敬司は「プロレス界のGW男」 アントニオ猪木がグレート・ムタに翻弄された日
忘れられない名勝負の数々
1995年には素顔の武藤敬司として、橋本真也からIWGPヘビー級王座を奪取。夏のリーグ戦「G1 CLIMAX」にも同王座保持者としては初めて優勝し、2冠に。10月にはUWFインターナショナルとの全面対抗戦で高田延彦に完勝。名声を揺るぎ無いものとした。
1996年4月にはムタとして新崎“白使”人生と闘い、勝利。巡礼僧キャラの人生の持ち込んだ卒塔婆に、彼の額から流れる血で、「死」と書きつけた場面は、忘れ得ぬインパクトを残した。事実、ここから27年後の今年1月22日、2人は6人タッグで再戦。人生に勝利したムタはまたも卒塔婆に人生の血で、今度はこう書いた。「完」。同試合は、武藤本人に先立つ、ムタの引退試合でもあったのだ。
そして94年5月1日の猪木VSムタ戦だ。入場時の猪木に花道上で詰め寄り、虚空に毒霧を吐いたかと思うと、次にはリングに戻り、猪木が入るためにロープを開けるムタ。観客同様、猪木の頭にも「?」が浮かんでいた筈だ。
試合開始後も、バックを取ったかと思うと、唐突に卍固めを仕掛けようとしたり、猪木が得意の“弓をひくストレート”を連発すると、その3発目寸前に毒霧を浴びせたりと、ムタはマイペースにやりたい放題。チョーク・スリーパーからフォール勝ちした猪木だが、試合後、マイクで叫んだ。
「まだ勝負はついてねえよ! 叩き殺してやる! 戻せ!」
憤怒を隠せぬ体。「ダー!」もなかった。完全にムタに翻弄されてしまったことを図らずも自身が物語っていた。
4試合とも、武藤が自らのベストバウトに挙げがちな試合である。プロレス史的にも燦然と輝いている。しかし、だからと言って、武藤をGW男とするのは早計だという見方もあるだろう。早くからスター選手だった武藤が連休中の大勝負に駆り出されるのは当然だし、他の時期にも、好勝負を残している。だがしかし、それは、プロレス、少なくとも新日本プロレスの流れを象徴してのことだった。
武藤以前は、GW中に、新日本プロレスのビッグイベント自体がなかったのである。
「俺らが活躍する90年代前までは、あくまでテレビ放送中心の興行日程だったんですね」
とは武藤、橋本と並ぶ闘魂三銃士の1人、蝶野正洋へのインタビュー時の言葉である。
「ところが、テレビ放送がゴールデンタイムから外れると、生中継や前日の試合を即時放送という必要もなくなった。逆に、ゲート(入場料)収入を強く意識しなきゃいけなくもなって来たんです」。
新日本プロレスを放映する「ワールドプロレスリング」と言えば、昭和のファンからすれば“金曜夜8時”の放送枠でお馴染みだった。参考までに、1980年から、金曜夜8時枠を外れる1986年9月までの蔵前国技館、ないし、両国国技館大会が行われた曜日を調べてみた。お馴染み、ビッグマッチの常打ち会場である。期間中、36回使用され、うち、生中継が出来る金曜日の開催は5回、録画での即時放送が見込める木曜日のそれは、なんと23回もあった。つまり、木曜と金曜だけで、計28回あり、全体の75%以上である。
ありていに言えば、昭和の新日本プロレスのビッグマッチは、木曜日中心におこなわれていたのだ。それは、蝶野の前言通り、テレビ放送を見越した日程だった。ところがゴールデンタイムでの中継は1988年3月に終了。放送枠は土曜夕方4時に移行し、ゴルフ中継で放映自体が消滅することも多発。1990年3月11日付けの東京スポーツに以下の記事が載った。それは、新日本プロレスの、新たな興行戦略についてであった。
「『大都市中心・短期集中』の“都市型路線”で突き進む。(中略)4月からは地方での赤字興行をカットし、大都市でのビッグイベントで一気に勝負することで業績をあげていこうというわけだ」
言うまでもないことだが、GW期の大規模興行開始は、この反映である。そして、マニアならご存じだろう。この新体制は、1990年4月27日のNKホール大会よりスタート。そちらでメインを張ったのが、凱旋帰国第一戦となる武藤敬司だった。
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