武藤敬司は「プロレス界のGW男」 アントニオ猪木がグレート・ムタに翻弄された日

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猪木が「1、2、3、ダー!」をやらなかった試合

 アントニオ猪木が、「1、2、3、ダー!」をやらなかった日がある。それも、5万5000人を動員した大会場のメインイベントで、シングル戦で勝利したにもかかわらず。

 それは1994年5月1日、いわば、ゴールデンウィーク真っ只中の出来事だった。

 90年代、ゴールデンウィーク(以下GW)は、プロレス団体にとってかき入れ時だった。大仁田厚を始祖とするFMWは、1993年から96年まで川崎球場大会を開催(いずれも日程は5月5日)。全日本プロレスは98、99年と東京ドーム大会を敢行(5月1日、2日)。珍しいところでは、少々日程はずれるが、WWE(当時WWF以下、WWFに表記統一)が94年5月7日より、全国4都市を廻るツアーを挙行している。あの「K-1グランプリ」の第1回大会が行われたのも93年の4月30日だった。そもそも同大会そのものが、当初はフジテレビのGWイベントの一環として組み込まれていた。

 だが、なんと言っても、こちらの大家と言えば新日本プロレス。93年から3年連続で福岡ドーム大会を主催し、いずれも5万人以上の観客を動員。更に96年4月29日(祝)には東京ドーム大会に6万5000人を動員。翌97年には業界初の大阪ドーム大会を成功させている(5月2日)。

 冒頭の猪木の試合がおこなわれたのは、まさに勢いに乗った2年目の福岡ドーム大会。相手はグレート・ムタ。そう、本年2月21日に引退した、武藤敬司の化身であった。

「(獣神サンダー・)ライガーより体重があるのに、そのライガーより速く動ける」

 と評していたのはどの選手だったか、ともかく武藤は天才レスラーだった。全日本ジュニア柔道選手権で全国3位の地力とともに新日本プロレス入門。デビューして半年後にはムーンサルトを披露し、同じく約1年後にはテレビに登場。アメリカ修業ではグレート・ムタとしてブレイクし、帰国後はエース街道を登り詰め、果ては全日本プロレスに移籍し、その社長に。

 かつて筆者がインタビューした時、「新日本でも全日本でも、トップを獲られて……」と振って、返された言葉が忘れられない。

「ちょっと待って。それだけじゃないよ。俺、アメリカでもトップだったから(笑)」

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