53歳で「世界一周ヨットレース」優勝 多田雄幸はなぜ世界中にファンを生んだ?(小林信也)
ニッチもサッチモ
82年8月30日にアメリカ・ニューポートから船出し、南アフリカのケープタウンなどに寄港。翌83年5月17日に世界一周を終えた。レース関係者、本人さえ予想しなかった非エリートの優勝に国内外が沸いた。
個人タクシーの運転手として稼いだお金はすべてヨットに注いだ。
オケラ五世号というヨット名は文字通り、ヨットに全収入を注いでオケラになったという意味だ。
孤独な旅の友は一本のサキソフォンだった。
多田の航海日誌の中に、「ニッチも行かず サッチモを吹く」という一節がある。荒波でヨットの制御がどうにもならず、開き直ってサックスを吹いて気を紛らわせた。吹いた曲がサッチモ(ルイ・アームストロング)の得意なナンバーというユーモアだ。荒れ狂う大海原でいつ命を奪われるかわからない、そんな状況で笑いを忘れない多田のたくましさ、貪欲に楽しみを追求する人柄こそが仲間たちに愛された源だ。
寄港すると陽気にサックスを吹き、初対面の人をすぐ「多田好き」にさせる人懐っこさで、多田は世界のヨット界のアイドルになった。
そう書くとさも爽やかなサックスの音色が聴こえそうだが、多田の演奏は達者とはいえない。調子外れの音を、よく気持ちよさそうに吹けるものだと感心するくらい。聞こえる音より、吹いている心地よさが多田にとって大切だった。それは多田の生き方の根幹ともつながる。他人の評価など気にしない。世間が決める優劣に縛られない。自分自身が楽しい瞬間を追求する、それが多田の生き様だった。
いや、こんな説明をすれば、多田は冷笑するだろう。
私は一度、普段は滅多に見せない多田の怒りに満ちたまなざしを至近距離で向けられた経験がある。
当時在籍した文藝春秋「ナンバー」編集部の担当デスク・設楽敦生が多田の相談役だったから、私はしばしば二人の会話を隣で聞いた。私は多田と同じ新潟県立長岡高の出身だから、勝手に親近感を抱いていた。それは麹町の小料理屋のカウンターだった。怒りというより軽蔑のまなざしだった。その瞬間、私は多田の信頼をすべて失った。
(この男とは以後一切話す価値がない)
と烙印を押された。それは私の人生の中でも、最も恥ずべき記憶のひとつだ。
私自身「自由人」を気取りながら、その実、優等生気質を捨てきれていない。そこを多田に見透かされ、痛烈に抉られたのだ。
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