ゴルフに魅せられた若者が動かした 初の企業名メジャー大会「中日クラウンズ」誕生裏話
今年で63回目を迎える中日クラウンズは1960年に民間企業が日本で初めて主催したゴルフのメジャー大会である。当初は中日新聞社主催の中部財界人と招待プロが一緒にラウンドするインビテーションだった。のちにアメリカツアーではペブルビーチでのプロ・アマ選手権が行われるようになるが、その前身は1973年に行われた歌手ビング・クロスビー主催のプロ・アマ選。ハリウッド映画黄金時代で、TV放送が入って盛り上がる。
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しかし、アマ・プロ招待試合は名古屋の中日クラウンズが早い。しかし、第一回大会の名前はその名も「中部日本招待全日本アマ・プロゴルフ選手権大会」と長いタイトル。招待プロは昭和32年(1957年)のカナダカップ(ワールドカップ)で団体・個人優勝の中村寅吉、小野光一など。財界人では松坂屋の社長など中部の財界人。財界人が金を出してプロに賞金を渡した。賞金総額は170万円、優勝賞金50万円。大金である。
父に「スポンサー」を要求
この大会に着目した若者が当時トヨタ自動車販売常務加藤誠之の長男で電通入社間もない加藤純氏である。父親の加藤誠之氏は満州事変前年に日本ゼネラルモーターズに入社し販売広告担当だった。上司の神谷正太郎とともにトヨタ自工に入社、のちトヨタ自販に転籍月賦販売部長だった。ゴルフを始めたのは1950年。師匠は東海銀行から常務として派遣された永井英氏。トヨタグループでゴルフをしたのは自工社長の豊田利三郎氏と永井氏の2人だけだった。そこに加藤月賦販売部長が仕事のためにゴルフを始める。加藤は野球とテニスをやっていたので当たると飛ぶ。ついには2回目のラウンドで師匠をグロスで抜いてしまった。
この時の経験からゴルフが病みつきとなる。取締役に就任して大阪事務所を開設。商談を持ちかけようと取引先銀行の大阪支店長ら3人を新車のSD型セダンに乗せて芦屋CCに接待。ところが1000CCのセダンは坂道を登れない。途中で加藤は下りて支店長のバッグを担いでコースにたどり着く。その時の加藤の誠意に心を打たれた支店長は融資を決意している。名古屋本店の常務になると家族でゴルフを楽しんだ。「3パット1000円」の罰金は水ガメに貯めて翌年の正月、川奈でのゴルフ費用に充てるというアイデアマン。その父親に「中日クラウンズ」の大会名のスポンサーになってくれ、と息子の純氏は口説く。しかし宣伝担当常務の父親はなかなか決断しない。
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