日本女性初のマラソン完走、小幡キヨ子 転機となった「佐渡での集団生活」(小林信也)
大地のリズム
国内のマラソンは女性の出場に門を閉ざしていた。競技志向の大会が大半で、先頭から数分以内に通過しないと止められる“関門”も数カ所あった。キヨ子は77、78年の京都マラソンに出場したが、関門に阻まれ完走できなかった。そして79年の別大毎日マラソン。関係者の理解で特別に出場が認められた。資料によればゴール後、「見知らぬ男性ランナーたちがペースメーカーや風よけ役をしてくれた」というキヨ子のコメントがある。実は少し違った。
「オンナに負けてたまるかみたいな感じで、私の周りにたくさん男性ランナーが集まって、すごく緊張感がありました(苦笑)」
中継でキヨ子の挑戦が紹介されたため、優勝が決まった後も多くの観客がゴール付近から帰らなかった。
「ゴールに沢山の人がいて、すごくうれしかった」
最後の関門もクリアしたキヨ子は、2時間48分52秒の好タイムで完走した。
9カ月後には第1回東京国際女子マラソンが開催され、84年ロス五輪での採用も決まる。女子マラソンはアッという間に競技志向に変わる。折しも結婚、出産して大井姓となったキヨ子は先駆者としての役割を終え、後進に道を譲った。キヨ子は田が抜け「鼓童」と組織を変えた仲間たちと現在も佐渡で暮らし続けている。
「いまもゆっくりですが、走っています。私にとって走ることは大地のリズムを感じること。足で大地をたたいているのです」