開幕直後は“絶好調”だったのに…尻すぼみで終わった“残念な助っ人たち”

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 2023年シーズンも開幕から1ヵ月余り。虎の中軸を担うシェルドン・ノイジーをはじめ、新外国人たちの働きぶりも気になるところだが、過去には、開幕直後は結果を出したのに、尻すぼみで終わった助っ人たちも多く存在する。【久保田龍雄/ライター】

 1995年に開幕戦史上初の初打席満塁弾をかっ飛ばしながら、素行不良でシーズン途中にクビになったダイエーのケビン・ミッチェル、1984年に開幕から1ヵ月ちょっとで8本塁打を記録しながら、住居にゴキブリが出るなど、環境面の不満を理由に電撃退団帰国した近鉄のドン・マネーが代表格だが、中には短かった活躍期間すら忘却の彼方になりつつある助っ人もいる。

メジャー通算237本塁打を記録した“デーやん”

 その一人が、ヤクルトのダグ・デシンセイだ。メジャー通算237本塁打を記録した右投げ右打ちの三塁手は1988年、“赤鬼”ボブ・ホーナーの後釜として当時では破格の推定年俸1億9000万円で入団した。

 来日時に37歳になっていたが、同年4月8日の開幕戦、巨人戦に4番サードで出場すると、2回の来日初打席で桑田真澄から東京ドーム開設後公式戦第1号の先制弾を放つ。

 関根潤三監督命名の“デーやん”の愛称もすっかり定着した現役メジャーリーガーは、守備でも三塁線のハーフライナーを横っ飛びキャッチするなど、攻守にわたってチームの勝利に貢献し、「とにかく気合が入っていた。エキサイティングなゲームだったね」と笑顔を見せた。

 翌9日の巨人戦でも、デシンセイは、ビル・ガリクソンの外角スライダーに右腕を伸ばしてミートする技ありの一打で左翼席に運んだ。

 だが、開幕から9試合で5本塁打を記録した強打ぶりも、持病の腰痛の悪化や日本のストライクゾーンになじめず、4月下旬以降、打率1割台と低迷する。その後も6月15日の巨人戦、同18日の広島戦でNPB史上初の2試合連続逆転サヨナラ本塁打を記録するなど、時折り存在感を示したものの、8月末に腰痛治療で帰国、打率.244、19本塁打で現役最終年を終えた。

開幕から14試合で10発を達成

 尻すぼみになるのは、来日1年目の助っ人に限った話ではない。開幕直後、NPB史上歴代2位のハイペースで本塁打を量産しながら、別人のように急失速したのが、近鉄のリー・スチーブンスである。

 来日1年目の1994年に打率.288、20本塁打の成績を残したスチーブンスは、翌95年、開幕から4試合連続無安打が続いていたが、4月7日のロッテ戦で17打席目のシーズン初安打となるバックスクリーン左への1号3ランを放つと、「日本の投手にも少し慣れてきた」と一気にエンジン全開となる。

 4月13日のオリックス戦までパ・リーグタイの6試合連続本塁打を記録し、翌14日のダイエー戦では、王貞治(巨人)とランディ・バース(阪神)が持つNPB記録の7試合連続に挑んだ。

 結果は「憧れの王さん(ダイエー監督)の前で緊張して」不発に終わったものの、4月15日のダイエー戦から3試合連続アーチを放ち、同18日のロッテ戦では2回に右越えソロ、8回に中越えソロの2発が飛び出したことから、1978年のエイドリアン・ギャレット(広島)のNPB記録、開幕から13試合で10本塁打に次ぐ14試合で10発を達成、鈴木啓示監督も「あいつ、すごいペースやなあ」と目を丸くした。

 ギャレットは同年40本塁打を記録しており、スチーブンスにも40発以上、あわよくば王と並ぶ55本の期待もかかった。

 だが、ここから驚異的なハイペースはすっかり影を潜め、11号が飛び出したのは、1ヵ月以上経った5月26日のダイエー戦だった。

 95打席ぶりのアーチに「米国でやっているときから固め打ちするタイプだから、また打ち出すよ」と気炎を上げたスチーブンスだったが、打率.246、23本塁打に終わり、チームも最下位に沈んだ結果、同年限りで解雇された。

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