中日ロドリゲスだけじゃない…チームに合流せず、来日を拒んだ「お騒がせ助っ人列伝」

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年俸調停の「NPB第1号」

 一方、契約交渉がこじれ、NPB史上初の年俸調停の裁定を不服として来日を拒否したのが、阪神の外野手、レオン・マックファーデンである。

 1972年に来日したマックファーデンは、出場54試合、打率.283、2本塁打と物足りない成績ながら、「足と肩がいいから、契約してもよかろう」(戸沢一隆球団代表)と2万5000ドル(約750万円)から20%ダウンの2万ドル(約600万円)で首がつながったかにみえた。

 ところが、手紙や国際電話で催促したにもかかわらず、年明け後も本人は応じようとせず、キャンプ終盤の73年2月20日、球団宛てに遠征手当などと合わせて1000万円を要求する手紙が届いた。「アップしてもらわないと、日本で生活できない」というのが理由だった。

 その後、球団側が15%ダウンまで譲歩したが、3月10日になっても解決のメドが立たなかったため、ついに年俸調停に持ち込まれた。1991年に中日時代の落合博満が日本人選手で初めて年俸調停を申請しているが、以来、マックファーデンは年俸調停が話題になるたびに「NPB第1号」として、その名が挙がることになる。

 3月29日、プロ野球調停委員会は、前年のマックファーデンの成績を理由に「阪神の言い分が妥当」と球団側に軍配を上げた。

 一方、裁定に従って契約しない場合は任意引退するしかないマックファーデンは、シーズン開幕後も返事を保留していたが、再び阪神でプレーすることなく退団した。

仮病を使って試合を休む“問題児”

 73年シーズン途中にヤクルト入りしたメジャー通算219本塁打のジョー・ペピトーンも、仮病を使って試合を休む“問題児”で、出場14試合の打率.163、1本塁打とまったく戦力にならなかったが、新外国人の補強が難航したことから、一転残留が決まった。

「いろいろ迷惑をかけたけど、初心に返ってやり直す」と2月2日スタートの1次キャンプ参加を約束したペピトーンだったが、待てど暮らせど来日せず、球団側が定めた最終リミットの3月15日になっても現れなかったため、契約解除となった。今年3月13日に82歳で死去したニュースを知って、懐かしく思い出したファンもいることだろう。

 また、2003年に中日入団が内定したケビン・ミラーは、所属球団のマーリンズが中日に移籍させるためにウエイバー公示すると、レッドソックスが“掟破り”の獲得に動き、その後、本人が米国でのプレーを望んだことから、中日は泣く泣く断念する羽目になった。

 11年にオリックスで8勝を挙げたアルフレッド・フィガロも、オリックスと契約中の12年12月にブリュワーズとマイナー契約し、物議を醸した(翌13年1月、オリックスは契約放棄)。

 冒頭で紹介したロドリゲスのメジャー移籍が実現すれば、またしても“ゴネたもん勝ち”という結果になるのだが……。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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