これぞ男の意地! 放出された球団に“一矢”報いた名選手たち

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“人身御供”から“巨人キラー”に

 前出の与那嶺同様、古巣・巨人に対して、男の意地を見せたのが、1979年の小林繁である。

 同年、キャンプイン直前の江川卓との「電撃三角トレード」で、“人身御供”のような形で阪神に放出された小林は、開幕第2戦となった4月10日の巨人戦で、移籍後初登板のマウンドに上がった。

「(因縁対決で)周りのムードは放っておいても盛り上がるでしょう。それに踊らされるように僕自身がカッカしては、危険な状態になる。あえて自分が冷めて、周りのムードに乗る感じがいいんですよ」と試合前に語っていた小林だが、初回に張本勲に安打を許し、2回も2死から連打されるなど、立ち上がりから力んでいた。

 その裏、捕手・若菜嘉晴の右越えソロで先制したものの、4回に3安打を集中され、追いつかれてしまう。

 だが、直後、阪神はラインバックの2ランと中村勝広のソロで4対1と一気に突き放す。「みんなが僕を盛り上げ、励ましてくれるのがひしひしとわかりました」と意気に感じた小林は、5回に張本に右越えソロ、6回にもエラーをきっかけに1点を失ったが、8回途中まで毎回の12安打を浴びながらも、5回に王貞治からヘルメットが飛ぶほどの空振りで三振を奪うなど、要所で踏ん張り、1点差を死守。最後は守護神・池内豊と助けを借りて、移籍後初白星を手にした。

「苦しかった。でも、みんながハッパをかけてくれたから、ここまで放れたんです」とチームメイトに感謝した小林。「今度は何とかいいピッチングがしたいです」と決意を新たにした。

 その言葉どおり、同年、小林は巨人戦で無傷の8連勝を記録し、“巨人キラー”の名をほしいままにした。

「キーヨーハーラ!」

 打席では結果を出すことができなかったが、古巣の巨人ファンから温かい声援を受け、救われた思いになったのが、清原和博である。

 巨人時代の2005年8月、堀内恒夫監督から「残り試合は若手でいく。もう使えない。オレも辛い」と告げられた清原は「荷物をまとめたら、泣けてきた。自分の(巨人での)9年間すべてを否定された気がして……」とプロ20年目の屈辱に悔し涙を流した。

 その後、仰木彬氏の生前のラブコールに応える形でオリックスに移籍した清原だったが、翌06年も相次ぐ故障から4月26日のロッテ戦を最後にスタメンから外れ、苦闘の日々が続いていた。

 だが、6月14日の巨人戦、4対2の7回1死、「代打・清原」が告げられると、東京ドーム右翼席の巨人ファンが総立ちとなり、オレンジ色のタオルを掲げながら、「キーヨーハーラ!」の大合唱。まさに「東京ドームは清原のためにあるのか!」と形容したくなるような大歓声のなか、清原は西村健太朗のシュートを打って遊ゴロに倒れたが、一塁ベースを駆け抜けたあと、ヘルメットを右翼席に向かって高々と掲げ、感謝の意を表した。これに対して、右翼席のファンもスタンディングオベーションで応えた。

「もうビックリした。敵やのにあんなに声援を貰って、本当にうれしかった。巨人が負けてる展開でやで。9年間身を削ってやってきてことを認めてもらえ、本当の心に残る思い出になって、感謝してます」

 翌15日の巨人戦は、1対8と大敗したため、中村勝広監督は「彼のプライドもあるだろうし」と清原を温存したが、9回に代打での登場を熱望する右翼席のファンが「キ・ヨ・ハ・ラ!」と大合唱するひと幕も……。

 移籍後も古巣のファンと一体感を共有したという意味では、これも「一矢報いた」と言えそうだ。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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