これぞ男の意地! 放出された球団に“一矢”報いた名選手たち

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「巨人をクビになって、はらわたが煮えくり返った」

 昨オフ、“衝撃のトレード”で中日を放出されたDeNA・京田陽太が4月9日、古巣・中日戦の初打席で中前安打を記録し、林琢真の犠飛で7点目のホームを踏むなど、移籍時に誓った“こてんぱんの勝利”に貢献した。過去にも移籍1年目に古巣と因縁対決を演じ、一矢報いた選手がいる。【久保田龍雄/ライター】

 長年尽くしたチームを放出された無念を翌年の開幕戦で見事晴らしたのが、ハワイ移民の日系2世・与那嶺要である。

 1951年に戦後初の米国籍選手として巨人に入団した与那嶺は、在籍10年間で57年のMVPをはじめ、首位打者3度、ベストナイン選出7度など、優勝8回、日本一4回の黄金時代に大きく貢献した。

 だが、10年目の60年、35歳の与那嶺は打率.228、5本塁打と衰えが顕著になり、オフに就任した川上哲治監督の構想から外れてしまう。

 当時、同一チームに10年在籍した選手は、「A級10年選手」として他球団と自由に交渉できる資格が与えられていた。現在のFAに相当する資格を有したまま他球団と交渉したい与那嶺は、交渉解禁日の12月16日まで自由契約にするのを待ってほしいと要望したが、球団側はこれを無視して12月3日に自由契約を発表した。

 男の面子を潰され、「カワ(川上)さんには恨みはないが、巨人をクビになって、はらわたが煮えくり返った」という与那嶺はその後、獲得に動いた近鉄、中日のうち、あえて巨人と対戦できる中日を選んだ。

監督としても巨人のV10を阻止

 そして、翌61年4月8日の開幕戦で古巣・巨人と対戦した与那嶺は、1対1の9回無死、右翼から一塁方向に吹き抜ける逆風をついて、右翼席中段に決勝ソロを放つ。

「みんなが言うような“復讐”なんて気持ちはないよ」と古巣へのわだかまりを否定した与那嶺だったが、ネット裏で観戦していた夫人は「巨人を辞めさせられたときは、可哀想なくらいに沈んでいた。これで私も胸がスーッとした」と溜飲を下げた様子だった。

 一方、元同僚に一矢報いられた形の川上監督は「与那嶺を褒めてやらねばいかん。口惜しいというより、彼が打って負けたということは、むしろウチの励みにもなるし、救われる」とエールを贈った。

 与那嶺は中日監督時代の74年にも、チームを20年ぶりの優勝に導き、川上巨人のV10を阻止している。

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