衝撃引退から40年で振り返る「初代タイガーマスク」猛虎伝説 佐山サトルが語ったダイビング・ヘッドバットの極意
「しゃべることも出来ないくらい……」
2月22日、後楽園ホールでおこなわれた「ストロングスタイルプロレス」で試合前、平井丈雅・団体代表がマイクを持った。触れたのは団体を主宰する、初代タイガーマスクこと、佐山サトルの病状について。この日、佐山は挨拶のため、隣接する東京ドームホテルで待機していたが、結局、来場することができなかった。
「日によって体調が良くなる時。しゃべることもできないぐらい悪くなる時。その繰り返しでございます」(平井代表)
佐山は2015年5月に心臓を手術。この際は復帰したが、翌年より、体調がすぐれず、同年12月の試合を最後に長期欠場。2019年末には「パーキンソン病に近い状態」(「ストロングスタイルプロレス」会長・新間寿)で、一時、歩行も困難な状態に陥った。幸い、本年3月9日の会見には登場。本人が語る容態は、やはり平井代表の前言通り、「日々、変わっている」という。
初代タイガーマスク(以下、タイガー)。彼こそプロレス界におけるスーパーヒーローだった。その存在感は、ちょっと別次元だ。
以下の逸話がある。
1982年4月2日(金)。福岡でのサイン会を終え、羽田空港にトンボ帰りしたタイガーは、ロビーにあるテレビに人が群がっているのに気づいた。観ると、金曜日の夜ゆえ、「ワールドプロレスリング」が放映中(当時)だ。前日におこなわれ、この日に録画中継された自身の試合に皆が見入っていたのである。
タイガーが対戦相手のスティーブ・ライトをバックフリップで沈めた、その直後だ。テレビ前にいた群衆が全て、サーッと潮がひくように立ち去ってしまったのである。次の試合は、第5回MSGリーグ戦の決勝戦という大勝負だったのだが(※アンドレ・ザ・ジャイアントvsキラー・カーン)。逆に言えば、タイガーが如何に一般層にまで浸透したスターだったかを示す逸話と言えるだろう。
2023年はその新日本プロレスでの電撃引退から40年。改めて伝説を振り返ってみたい。
デビューに一役買った自民党の大物議員
デビューの経緯は半ば神話化している。1981年4月20日より、「ワールドプロレスリング」も放送されているテレビ朝日で、アニメ「タイガーマスク2世」が開始。タイガーのデビューはその3日後、原作者・梶原一騎の肝煎りによる連動企画だった。前後するが、初期のタイガーのサイン会における看板は、アニメになぞらえ「タイガーマスク2世・サイン会」となっている。
イギリスに遠征中だった佐山を呼び戻して、中身を務めさせることとなったが、出国時にトラブルが。佐山が同国での税金を払っておらず、足止めになったのだ。ここで活躍したのが、総理大臣経験もある自民党の大物議員だとされる。当時、知己かつ、新日本プロレスの営業本部長だった新間寿に請われ、外務省を通じて、佐山を出国させたのである。
そして同年4月23日、ダイナマイト・キッドを相手にデビュー。同試合のみ使われたマスクの粗雑さも有名だ。その理由は、原型がザ・デストロイヤーのような白い覆面で、そこに絵を描きつけることで完成した急場しのぎのそれだったから。因みに、虎っぽく、耳も付いていたが、こちらは当時の新日本プロレスの女性社員の手縫い。今は都内某所で居酒屋を営んでいるが、この時のことを聞きたい関係者が引きも切らず訪れているそうだ(※取材は全部断っているとか)。
ジャーマン・スープレックスで勝利したデビュー戦は、今観ても覚醒的な名勝負だ。解説の山本小鉄の「今までにない試合をしてくれましたね」の一言が、その革新性を物語る。一方で、決着直後、同じく解説の桜井康雄に、「桜井さん!」と話を振った実況の古舘伊知郎が、「今のねぇ」と口火を切る桜井を遮り、
「カール・ゴッチから猪木、そして藤波へと受け継がれているジャーマン・スープレックスを見舞ったぁ!」
と続けるのも象徴的だ。古舘アナ自身、興奮が隠しきれなかったのだ。以降は大人気に。サイン会の「2世」の字もほどなくして消えていた。
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