誠実な好青年「浅井長政」はどうして義兄、信長を裏切ったのか
逆心を信じられなかった信長
それはともかく、長政はなぜ妻の兄である信長を裏切ったのだろうか。その理由について、史料はほとんどなにも語らない。
信長が3万といわれる大軍を率いて、上洛要請に従わない朝倉義景を討つために京都を発ったのは、永禄13年(1570)4月20日のことだった。琵琶湖の西岸を進んで越前国に入り、最初に手筒山城、続いて金ヶ崎城を攻略。木目峠を越えて、いよいよ朝倉氏の本拠である一条谷に迫ろうとしたとき、浅井長政逆心の報がもたらされたのである。
どうやら信長は、義弟の長政が自分を裏切るとは、微塵も思っていなかったらしい。太田牛一の『信長公記』巻三にはこう書かれている。
「浅井は歴然御縁者たるの上、あまつさえ江北一円に仰せ付けられるの間、不足これあるべからざるの条、虚説たるべし」
つまり、浅井長政は妹が嫁いでいる縁者で、江北すなわち北近江を支配させているのだから、不足があるわけなく、裏切りだなんてウソに違いない、というのである。この表記からは、あの信長が長政に手放しで信頼を寄せていたことがわかる。
そんな義弟に裏切られたせいで、信長はしんがり(後退する舞台の最後尾)を木下藤吉郎らにまかせ、徳川家康もそこに協力させたうえで、脱兎のごとく京に逃げ帰らなければならないハメになった。
義理や人情からの逆心ではない
史料には長政の心中は書かれていないが、逆心にいたった理由を、彼が置かれていた状況から推察することはできる。
長政は信長と縁戚関係を通じて同盟を結んでいたわけだが、同時に北近江の国衆(在地領主)として、隣国の越前の朝倉氏に従属する立場でもあった。つまり、朝倉氏からも政治的および軍事的な保護を受けており、いわば織田氏と朝倉氏に両属していたのである。
ところが、よりによって関係のある両家同士が争うことになってしまった。こうなった以上は、どっちつかずではどちらからも攻められかねない。そこで選択を迫られた長政は、朝倉氏への従属関係を優先した、というわけだ。
柴裕之氏は「これは、浅井氏固有の事情ではなく、自身の地域『国家』存立に努めることが求められた戦国時代の大名や国衆らの持つ性質であり、そこから選択された結果である」と強調する(『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く』)。つまり、義理や人情がからむ余地がない、冷徹な判断であると。
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