瀕死の重傷の後に覚醒 ベン・ホーガンはなぜ史上最高のゴルファーになれた?(小林信也)
アーメン・コーナー
ジョーンズの予言は現実となった。大事故からわずか11カ月後の翌50年1月、ロサンゼルス・オープンに出場すると、サム・スニードと優勝争いを演じ、プレーオフで敗れたものの、奇跡的な復活を遂げた。
敗戦の夜、当時を代表するスポーツ記者たちが主催し、晩餐会が開かれた。その席でのグラントランド・ライス記者の祝辞は長く語り継がれている。
「われわれは今晩、記録のうえからすれば負けた方の栄誉をたたえるために、この場に集まりました。しかし私は、彼は負けたのではないと言いたいのです。ただ、彼の強烈な気力を支えられるほど彼の両脚が強くなかっただけのことなのです」
事故の際、ホーガンが自らの身を挺して妻の命を救ったことも伝わった。この日を境に、冷徹な勝利者と半ば疎まれていたホーガンとファンとの距離は一気に縮まった。不自由な肉体にむち打って戦う事故後の競技人生が、不思議なことにホーガンの「黄金時代」にもつながるのだ。
マスターズを初めて制覇するのも事故後の51年だ。ジョーンズはこの年、設計も手掛けるオーガスタ・ナショナルに若干だが象徴的な変化を加えている。後にしばしば伝説の舞台となるアーメン・コーナー(祈りの場)を作ったのだ。実はジョーンズはじわじわと神経がむしばまれる空洞脊髄症に侵されていた。コースの変更は、体の自由が利かなくなった彼のゴルフ魂を注ぐ新たな手段でもあった。そして、そのコースで勝利の女神の戴冠を受けたのは、ホーガンだった。
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