「長嶋茂雄」、「野村克也」があり得ないミスを…名将の思わぬ“チョンボ采配”
「労多くして益なしや」
巨人の新外国人・ブリンソンが4月6日のDeNA戦で、走塁ミスに加えて、アウトカウントを間違えるなど、二つのミスにより“左中間併殺打”の珍プレーを演じて、“大チョンボ”と非難の的になった。だが、選手はもとより、時には監督もチョンボを犯してしまうのが、野球の怖さ……。あの有名監督の記憶に残る“チョンボ采配”を振り返ってみよう。【久保田龍雄/ライター】
【写真特集】「ピッチャー新庄」も? 「ノムさんとハイタッチ」「伝説の敬遠サヨナラ」「新婚時代」新庄剛志監督の秘蔵ギャラリー
まずは楽天時代の野村克也監督から。2006年6月30日の日本ハム戦、1対1の9回裏1死一、二塁のピンチで、左の代打・小田智之が送られると、野村監督は小倉恒をファーストに回し、ワンポイントの左腕・河本育之を投入した。ヤクルト、阪神時代に何度となく用いた“野村スペシャル”である。
河本は代打の代打・田中幸雄を四球で歩かせたものの、2死後、小倉が再びマウンドに戻り、金子誠を一邪飛に打ち取る。奇策がズバリ的中した形だが、この采配には思わぬ落とし穴があった。
パ・リーグはDH制のため、小倉が一塁に入った時点でDHが解除され、山崎武司がオーダーから消えてしまう。さらにファースト・リックがサードに回った結果、4番・フェルナンデスも河本に交代する形となり、一瞬にして打線が“薄っぺら”に。直後、セ・リーグとパ・リーグのルールの違いに気づいた野村監督が慌ててベンチを飛び出し、確認を求めたが、あとの祭りだった。
試合も延長10回に小倉が田中賢介にタイムリーを浴び、無念のサヨナラ負け…。百戦錬磨の名将も「労多くして益なしや」とボヤキが止まらなかった。
ちなみに野村監督は、ヤクルト時代の1995年4月13日の中日戦でも、投手のブロスを偵察メンバーに入れたところ、「外国人選手3人を同時に野手で使えない」とする当時のセ・リーグのアグリーメントに触れ、急きょ伊東昭光に変更、「大チョンボ。罰金ものや」と反省する羽目になった。
「もし、あのまま負けとったら……」
DH絡みの“チョンボ”といえば、阪急時代の上田利治監督もやらかしている。
1982年8月12日の近鉄戦、上田監督は投手の山沖之彦を偵察要員として5番DHで起用したが、同年から「スタメンDHは最低でも1度は必ず打席に立たなければいけない」とルールが変わっていた。
「ルールはシーズン前に読んで知っていた」という上田監督だが、近鉄の先発が右か左か予想がつかなかったことに加え、左のDH・加藤英司、ケージが揃って不振とあって、「左投手が出てきたら、加藤を下げて、河村(健一郎)とばかり考えて、すっかり忘れてしまった」という。
山沖に代打を送れないと気づいたときには、もう手遅れ。山沖も「いきなり“行け”と言われて、本当にビックリした」と泡を食った。
そして、何とも間が悪いことに、1回表、阪急は安打と四球、野選で1死満塁のチャンスをつくり、山沖に打順が回ってきた。
直前まで長池徳士コーチから即席の打撃指導を受けた山沖だったが、「とにかく併殺だけはいかんと思ってた」と鈴木啓示から「狙いどおり」の見逃し三振。なおも2死満塁で高井保弘も二飛を打ち上げ、得点ならず。その裏、島本講平の一発で1点を先行される悪い流れになった。
だが、3回に4番・マルカーノの3ランで逆転すると、火がついた阪急打線は15安打の猛攻で13対5と大勝し、指揮官のミスを帳消しにした。
「もし、あのまま負けとったら……、冷や汗が出てきたぜ」と気が気ではなかった上田監督も、「今日の殊勲は山沖や!」と声を揃えるナインに、腹を抱えて大笑いだった。ちなみに、山沖はオリックス時代の90年9月19日の日本ハム戦でもDH解除後の打席に立ち、今度は四球で出塁している。
[1/2ページ]